2024年12月
12月1日 アドベント第1主日
「主の来臨の希望」 佐野 治牧師
ルカによる福音書21章25~36節
本日より、アドベントへと入りました。主のご降誕を待ち望むアドベントです。
新約聖書では、ルカによる福音書のみ言葉が与えられました。この福音書には、とても厳しいことものべられています。それは、主は裁き主として来臨されると言っているのです。キリスト者も裁きの座に立つのです。しかし、主なる神さまは、私たちを滅びに定めることを目指しているわけではありません。本日のもう一つのエレミヤ書では、エレミヤは、やがて訪れる主の日を「恵みの約束を果たす日」と言っています。
主なる神さまは終わりの日に、審判者でありつつも私たちを救うために全力を尽くしてとりなして下さるのではないでしょうか。この救いの完成をもたらす恵み深い主を悲しませないように、神様の民としてふさわしい歩みをしなさい、と言うのが本日の聖書箇所の教えであるということが出来ます。
私たちは子どもから老人に至るまで、いつも目の前の問題を抱えています。その問題をどうするか、そのことにばかり心も時間も費やされているものです。学生たちは今度の試験に良い成績を取るためにどうするか、また、友達や好きな人とのやり取りもあるでしょう。成人し、社会人になれば、仕事のこと、結婚のこと、子どものこと、家族のこと。そして年を取れば、自身の健康のこと、子どもや孫のこと。それらのことは、「まあ、このことはどうでも良いこと」ということではありません。「どうせもう先が長くないんだから、真面目にやらなくても良い。」そんなことではありません。
ルカによる福音書21章36節後半で「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」と言われました。決して滅びることのない神の言葉に固執して生きるということは、自分がやがてイエス様の御前に立つ日が来る。イエス様が再び天より降りて、生ける者と死ねる者とを裁く為に来られる時、自分はイエス様の御前に立たなければならない。そのことを忘れない、そのことを心に刻みつつ生きるということなのです。
コヘレトの言葉を読む中で「青春」と言う言葉が出てきました。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」私は青春と言いますと、若い時の事とばかり考えていました。皆さんはどうでしょうか。サムエル・ウルマンの「青春」と言う詩を読み、思いが変えられました。「青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方を言う…青春とは臆病を退ける勇気、安きにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。時には、20歳の青年よりも、60歳の人に青春がある。」
主のご降誕を待ち望むこのアドベントの時、神様の大いなる愛で包まれた、この御独り子イエス様の誕生を、待ち望みましょう。そして、希望を胸にして、喜びをもって、勇気をもって、情熱をもって、過ごして行こうではありませんか。
12月8日 アドベント第2主日
「旧約における神の言葉」 佐野 治牧師
イザヤ書55章1~11節
アドベント第2主日を迎えました。アドベントを待降節とも言います。主のご降誕を待つとき、それが待降節です。私たちは日常生活の中でも「待つ」ことはたくさん経験してます。特に嬉しい事や喜ばしい事を待つときは、なんだか気持ちがワクワクします。
聖書の中にも待つことを強いられた人たちのことが書かれています。バビロンに捕らわれた人々もそうでした。神さまに選ばれた民として誇り高く生きていたイスラエルの人たちでしたが、紀元前587年、南王国ユダは、新興国バビロニアによって、滅ぼされてしまいます。そして民の多くは捕らえられて、バビロニアの首都であるバビロンへと連れていかれてしまうのです。
第2イザヤの著者は、バビロン捕囚が終わりに近づいたころに、活動をはじめ、バビロンに捕らわれている人々に対して解放の時が近いことを告げ知らせて、祖国に帰ることを強く促したのです。自らが望んだわけでもないのに遠い異国の地で苦難の生活を強いられていた人々は、故郷への思いを強くしていたことでしょう。
神さまの語った言葉と言うのは、必ず現実します。例えば、神様が解放すると言えば、解放が実現するのです。神様が赦すと言えば、必ず赦しが起こるのです。ここにこそ、本当の希望があるのです。ですから、勇気を出しなさいと、本日の旧約聖書であるイザヤ書は語っています。そのことを分かりやすく示すために、イザヤ書はここで、自然現象を例に挙げているのです。55章10節「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える。」これは私たちが日々体験していることではないでしょうか。雨は降りすぎれば洪水となってしまいますが、適度な雨は、作物の生育に欠かすことが出来ないほどの、天の恵みと言うことが出来ます。必ず良い実りをもたらします。
「待つ」と言うことは、決してたやすいことではありません。待っても待っても何も与えられず、虚しい思いだけが残ることもあります。恵みが自らのもとに注がれることを期待するのであれば、目に見えた結果が得られずに待っても意味がないと失望するのです。
私たちは今、主のご降誕を待ち望むアドベントの時を歩んでいます。神様は、私たち人間の罪をお赦しになり、永遠の命へと招くために、罪なき独り子イエス様をこの世へとお送りくださいました。私たちはただ、神様によって与えられる、その時を待っているのです。
主なる神さまは、どんなに弱く、裏切られても、また神様を信じることが出来ない者にも、つまり全ての人に対して、恵みを注いでくださいます。そして悔い改めてご自分のもとに帰ってくる日を辛抱強く待ち続けていて下さいます。共に、イエス様のご降誕の日を待ち望みましょう。
12月15日 アドベント第3主日
「先駆者」 佐野 治牧師
マタイによる福音書11章2~19節
本日の士師記に登場するサムソンの誕生の物語ですが、その様子は、新約聖書で描かれているクリスマスの物語や洗礼者ヨハネの誕生物語ととても似ています。
サムソンの母は、マノアという男の妻で、不妊の女と言われていました。ですから、子どもを産んだことがありませんでした。
洗礼者ヨハネの物語においてはどうであったでしょうか。天使が現れて、男の子を生むことを告げ知らせたのです。しかしその言葉を信じることが出来なかったザカリアがいました。主なる神さまは、時が来るまで、ザカリアの口を利けなくしてしまったのです。
先駆者とはどのような存在と言うことが出来るでしょうか。先駆者と言うのは、本来であれば、フロントランナー(先頭ランナー)であり、尊ばれるものであるのです。しかし、このサムソン、洗礼者ヨハネは、先駆けであり、道を整える働きをする者であったのです。
主のみ使いが「救いの先駆者になろう」と預言したのは、旧約聖書に登場する英雄のサムソンンのことでした。ペリシテ人に圧迫されていたイスラエルを救うために怪力をふるうサムソンの物語は痛快な歴史劇の一つであるのです。
さて私は、昨年5月より、茨城キリスト教学園中学部通う生徒たちの聖書の授業を担当させて頂いております。
2学期に入り、士師記の学びへと入りました。12士師を学ぶのですが、50分授業で、範囲をこなすには、詳しく見ている時間がないので、3人の士師に絞って学びました。一人目がデボラ、二人目がギデオン、そして三人目が、サムソンです。サムソンは、怪力の持ち主です。強さの秘訣を知りたい者たちがたくさんいたのです。その者たちが一人の女を送り込み、強さの秘訣を探ろうとします。でもなかなか強さの秘訣が分かりません。しかし、サムソンは、その女性のあまりのしつこさに負けてしまい、秘訣を答えてしまうのです。
洗礼者ヨハネには、二つの確信がありました。一つは、今まで預言者として語ってきたこと、生きてきたことです。もう一つは「イエス様が救い主、キリストである。」ということです。自分はイエス様の道備えとして人々に対して、悔い改めを求めてきたのです。
ところが、牢の中に聞こえてくるイエス様の行動は、大いなる力を用いて厳しい裁きを行っているというものではありませんでした。そこで洗礼者ヨハネの中に、この二つの確信に対する揺らぎが生じたのです。
そうです。洗礼者ヨハネであっても、心が揺れ動くのです。ですから私たちが、信仰をもっていても、心が揺れ動いてしまうこと、それは当たり前のことと言うことが出来ます。
この喜びの時、多くの人たちと共に、イエス様のご降誕を待ち望みお祝いしましょう。
12月22日 降誕日礼拝
「イエス様がお生まれだ」 佐野 治牧師
ルカによる福音書1章1~20節
ある日、マリアのもとに、神様の使いが訪れます。そして、彼女に聖霊によって彼女が身ごもったことを告げ知らせます。それはマリアにとってはとても受け入れ難い妊娠でした。
一方のヨセフもまたそのマリアを受け入れていきます。マタイによる福音書にはこの時のヨセフの葛藤が描かれています。マリアもヨセフもお互いに責任を担いあっていく決断をしていくのです。
もう一つのクリスマスの物語、本日の聖書箇所にも記されておりましたが、野宿をしていた羊飼いたちにまつわるものでした。羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの番をしているところに、神の使いが現れて言いました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
羊飼いは、羊たちにおいしい青草を食べさせなければなりません。羊たちの主食です。それには、同じ場所では、すぐに新鮮な青草はなくなってしまうので、その青草を求めて旅をします。それも数日どころではなくて、月単位。時には半年、一年と家に帰らないことがあったと言われています。過酷な労働環境であったということが言えます。羊を狙う動物もいます。羊を欲しい密猟者もいたでしょう。その者たちから、羊を守らなくてはなりません。
さて、イエス様がお生まれになった時代の時代背景はどのようなものであったでしょう。
マリアとヨセフが暮らしていたパレスチナは、決して平和な国ではありませんでした。ほかの地中海世界や今でいうと、西ヨーロッパの大半の国々と同じように、ローマ帝国の力、強大な軍事力と経済力によって支配されていたのでした。パレスチナにはもちろん王国として独立した国がありましたが、ローマの影響下にありましたし、その同盟国でした。
皆さんは“ミシュカ”という絵本をご存じでしょうか。私の好きな絵本の一つで、ぜひクリスマスにお読みいただきたい絵本の一つです。ミシュカとは、ぬいぐるみのこぐまです。
一番素敵なクリスマスプレゼントは何かということを、ミシュカを通して教えられました。それは「自分のできる一番良い事」。つまり、「献身」です。献身というのは、自分をささげて、相手のために尽くすことを言います。
神様の愛をたくさんいただいている私たちにとって、イエス様のご降誕をお祝いするこのクリスマスの時は、私とあの人、私たちとあの人たち、そして私と私自身との間の敵意と断絶を超えて、和解と本当の平和をもたらすために「決心して一歩を踏み出す」時であるのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」 アーメン!
12月29日
「遠くの東から」 佐野 治牧師
マタイによる福音書2章1~18節
本日の聖書箇所に登場するのは、占星術の学者たちでした。三人の博士と言われています。
東方から幼子イエス様を拝みに来た学者たちも、様々な計算や研究をして、この場所にたどり着いたことでしょう。
彼らのやってきた国、ある本では、バビロニアと書かれていました。このバビロニアでは、占星術や天文学が大変発達していたのでしょう。けれども、大切なことは、その学者たちが、研究するばかりではなくて、実際にその星を頼りにはるばる遠くの国へと、自ら出かけて行ったということです。占星術の学者たちは、研究室に閉じこもっているような学者ではなくて、「行動する学者たち」であったのです。彼らは、自分の研究で得た結論を自分で試してみたのです。自分の発見に、自分を賭けてみたのです。偉い学者なら、研究だけをして、結果を確かめるのは、誰か別の人にやらせるでしょう。わざわざ自分で出かけずに、誰か別の人を遣わせばよかったでしょう。あとで報告だけしてもらえばよいのです。
イエス様がお生まれになった家畜小屋へ、東方の博士とも言われた占星術の学者たちの訪問です。古代における占星術は、天文学の知識とも結びついた高度な学問でした。
彼らが導かれたのは星と記されていますが、その導きは星だけでしょうか。そうではなかったようです。占星術の学者たちが導かれたのは、聖書のみ言葉によってでした。5~6節には旧約聖書にある預言の言葉が記されています。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」これは、ミカ書5章1節に記されている預言です。
このマタイによる福音書では、ヘロデ王のことを悪く書き、そしてそこで、命令された占星術の学者たちを、良い人で、ヘロデからの命令を聞かざるを得ない、かわいそうな人たちということを伝えようとして記しているのでしょうか。そうではなくて、占星術の学者たち一人ひとりが、救わなければならない罪びとの独りとして描いているのです。彼は、真の神様を知らないのです。ここではまだ天体の導きに頼ることしかできていませんでした。純粋な人たちであったような印象すら受けてしまいます。しかし彼らが「東の方から」やってきたというところに、一つのメッセージが込められています。イスラエルの東には、かつてイスラエルを苦しめた国々がありまし。神様から遠く離れた罪の世界が“東”にあったのです。
博士たちは、導きによって、イエス様がお生まれになった家畜小屋に到着したのです。そして、「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」のです。
神様の御子であるお方が、十字架上で命をささげて罪びとの身代わりとなってくださいました。ユダヤ人の王であるばかりでなくて、全ての民の真の王様となって下さいました。
2024年11月
11月3日
「互いに仕え合う」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙5章21~28節
信仰の生活は、神様を信じる生活です。それよりももっと正しく言うのでしたら、神様によって救われたものの生活、と言わなければなりません。信仰生活には色々な場面や局面があります。信仰生活は教会生活ですが、同時に家族生活も含まれることではないでしょうか。
「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」。さて、「仕える」とは、どのような生き方なのでしょうか。イエス様は、ゼベダイの子ヤコブとヨハネに語りました。「人の子は、仕えられるためでなく、仕えるために来た」(マルコ10・45)と。そのイエス様の言葉を思い起こしますと、私たちは今日も、イエス様によって仕えられていることが分かります。このことを覚えて、私たちも、互いに仕え合うということが、イエス様のみ旨であると言えるのではないでしょうか。
私たちの愛するイエス様。イエス様の愛は、どのような愛であったでしょうか。それは、自分を捨てて、十字架の死に至るまで、徹底的に自分自身を私たちのために与えてくださる愛、全てを投げ出して私たちを救い、贖ってくださる愛、徹底して、私たちに仕えてくださる愛の持ち主ではなかったでしょうか。
互いに仕え合う。この関係は、妻と夫だけのことではありません。頭を含めた、体全体のあり方についても言うことが出来るのです。「互いに仕え合う」と言うことは、相手の言いなりになることとは違うのです。自分に与えられているその賜物、自分の存在そのものを、互いのために用い合って生きることなのです。「わたしたちはキリストの体の一部なのです」というパウロの言葉が、私たちの共通の思いであり続けたいと思うのです。
信仰によって私たちの生活はどう変わったのでしょうか。以前の生活や他の生活と何の変化もないと感じる人がいるかもしれません。従いなさい、下に立ちなさい、互いに仕え合いなさい。これまで人の下に身を置いたことのない人にとっては大きな変化でしょう。しかしずっと従ってきた人には、「何の変化もないな」と思われないでしょか。しかし実は、根本において大きな変化が起きています。信仰の生活は、信仰なしに生きてきたときとは、全く別のことがあります。なぜかというと、今までは「キリストに対する思い」が動機になっていなかったからです。
「キリストに対する畏れをもって」とは、誠実な信仰生活のありようとして語られています。「畏れ」はキリストの臨在に触れている厳粛な思いなのです。
主なる神さまは、私たちの生活を赦し、支え、励まし、そして守って下さいます。それがイエス様を信じる信仰生活で、「キリストに対する畏れをもって互いに仕え合う」生活なのです。仕え合おうとする信仰の生活を、主は喜んでくださいます。そうに違いありません。
11月17日
「キリストのからだとして」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙5章29~33節
エフェソの信徒への手紙では、夫婦について、特に詳しく述べているように思います。それをパウロは、三つの視点から記しています。一つ目は、妻に対して、夫に仕えることを求めています。次に夫に対しては、キリストが教会を愛するように、妻を愛しなさい。と言っています。そして3つ目は、このようなことによって、夫と妻とは一体である、と書いているのです。
カトリック教会では、結婚をサクラメントとしたために、どんな理由があろうとも離婚は許されないことになったと言われているのです。聖書解釈において、カトリック、プロテスタントの違いがある箇所です。カトリックには7つの秘儀と言うものがあります。
「洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、結婚」 これらの秘儀は、キリストによって制定されて、イエス様の愛のしるしを、目に見える形で表したものです。
本日の聖書箇所には、創世記2章の言葉が引用されています。「人は父と母を離れて、その妻と結ばれ、二人は一体となる」とあります。その上で、「この神秘は偉大です。」と記されています。
本日の聖書箇所の前半では、キリストが教会を愛し、清めて、栄光に輝く教会として、ご自分の前に立たせると言って、花嫁と花婿の関係として語られました。
そして後半になって、その頭と体は「一体」なのであると言われて、頭と体の関係から、頭と体の一体性へと話題が移っていくのです。
私たちが毎週行っているこの礼拝は、キリストの体なる教会で行っています。キリストの愛によって、キリストと教会の関係は、一体性へと深まっていくのです。この一体性の中で、キリストは私たち皆を、ご自身として養い、いたわって下さると言っています。
わたしは時々、榎本保朗牧師の『旧約聖書一日一章』を読んでおりますが、今回のエフェソの信徒への手紙5章のところを読んでみますと、以下のように語られていました。
「22節からは、夫と妻に対する教えが記されている。ここでもキリストが基準になっている。キリストが教会を愛された。あるいはキリストが教会のかしらであるというキリストと私たちの関係が、夫婦の関係の原型になっている…「おはよう」や「こんにちは」でも、向こうが言ったら、こちらも言おうというのでは、いつまでたってもあいさつは出来ない。だから愛の交わりが生まれるのも、誰かが先に仕えるということによって歯車が回り出すのである・・・。」このように記されていました。
本日与えられましたみ言葉によって、キリストの愛によってキリストと教会が一つであるこの神秘こそが、本当の意味で偉大なのだ、と告げられました。
主と一つにされているという神秘は、あらゆるこの世の試練や苦難よりも偉大なのです。
11月24日 子どもと共に守る礼拝
「子どもを愛されるイエス様」 佐野 治牧師
ルカによる福音書18章15~17節
今日の礼拝は子ども祝福・収穫感謝日礼拝です。
勿来教会の駐車場の横のところに小さな畑がありますが、知っていますか。今は、ピーマンの苗が植えてありますが、あの小さな畑で、たくさんの野菜を育てているのです。あの小さな畑で野菜を育てることが、私の楽しみでもあります。
さて、野菜たちはどのように育つのでしょうか。種を植え、土をかけて、お水をあげて、太陽の光をたくさん浴びて、すくすくと成長していくのでしょうか。一つ忘れてはいけないことがあります。それは神様が目をかけて、成長をさせてくれているということです。
今日の聖書のお話を見てみましょう。イエス様の周りにはいつもたくさんの人が集まっていました。その集まっているところに、子どもたちが来ました。「あ~、イエスさまだ。」と言って、大喜びです。中には、お母さんが抱っこしていた赤ちゃんもいました。
子どもたちが「イエス様~」とかけ寄っていくと、イエス様に会う前に、お弟子さんが、イエス様のところに行く道をふさいで、イエス様に会わせてくれなかったんです。
「だめだ。だめだ。イエス様は忙しいんだから、あっちに行きなさい。」と追い払おうとしたのです。でも、ちょうどその時にイエス様がその場面を見たのでした。
イエス様は、なんだかその姿を見て、とても悲しそうな顔をしていました。そしてお弟子さんたちに、「なんで子どもたちを追い払おうとしたのでしょうか。私のところへ子どもたちを連れてきなさい・・・。」とお弟子さんたちをお叱りになったのです。
そして、イエス様は、子どもたちの頭の上に手を置いて、祝福されたのです。他の聖書箇所を見てみると、抱き上げて祝福したとも書いてあります。よっぽど、子どもたちが好きだったのですね。
イエス様の祝福は、どんな祝福だったのでしょうか。みんなが元気に、すくすくと成長するように、祝福をしてくれたと思います。
神様に喜ばれる子どもって、何かをしなくてはいけないのでしょうか。例えば、勉強を一生懸命にしないとほめてもらえないのでしょうか。いやいや、そうではありません。
金曜日の日に、東京の目白教会と言うところに行って、お葬式に出席をしてきました。94歳のおばあちゃんのお葬式でした。そのおばあちゃんと、一年間ぐらい礼拝に一緒に出席をしていたことがありました。そのおばあちゃんは、いつも笑顔でした。ニコニコしている顔しか、思い起こせないくらいです。そしていつも「ありがとう」って言っているのです。
「ありがとう」とか、「ごめんなさい」この言葉が素直に言える子どもたち、それが神様が喜んでくれる子どもたちではないかな。と思います。
2024年10月
10月6日
「神さまがしてくださったように」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙4章25~32節
自分は一人だけで生きている、と思っておられる方はいらっしゃいますか。しかし、よく考えてみますと、人間は誰でも他の人と共に生きているのです。人間同士の関係の中で、生活をしているということが出来ます。
パウロは、「新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」と24節で告げ、最初に告げたことが、このことでした。25節「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。」とあります。真理に基づいた正しく清い生活を送りなさいと言われて、次に何が告げられるのかというと、「隣人に対して真実を語れ」ということなのです。
なんでそんなに大切なことと言うことが出来るかと言いますと、これがなければキリストにあっての交わりが出来ないからなのです。「真理に基づいた正しく清い生活」というのは、キリスト者個人の生活というよりも、教会の交わりを指していることなのです。
救われている、生かされているその真実を語るということは、恵みの喜びを語るということになるのです。この真実を語らなければならないのはなぜでしょう。それは、「わたしたちは互いに体の一部」であるということです。
私たちは、教会に集う中で、証しをすることがあります。証し、それは自分たちの成長の記録を話すこと、それだけではないのです。キリストによって、どのようにして救われて、どのようにして生かされて、今の自分があるのか、そのことを語るのです。
私の一番の証し、それは、2010年以降の話です。神様の導きなしでは、今の自分はなかったということが出来ます。なぜ自分が教会を離れなければならないのか、分からずにいたとき、神様は、一人の牧師を私のためにお送り下さり、その先生のもとで、学び、そして気付きを与えて頂き、今が、あるのです。その時まで、神様の救いや神様の御業について、信じてはいましたが、ある意味、他人事としてとらえていたのですが、この、神様が与えてくださった期間、私の思いは、変えられました。今までの自分の出来事を語ることは、恥ずかしい事と言う思いが強かったのですが、この変化こそ、神様の救いの御業であるということが示されたことによって、語る勇気が与えられたのです。
神さまが私たちに恵みを与えてくださいました。その恵みとは、中途半端な恵みではありません。神様の御独り子である、イエス様を私たちのために、献げてくださる、無償の愛と慈しみによる、罪の赦し、そして永遠の命の約束。その恵みをわたしたちは受けたのです。ここにおられる一人一人が受けているのです。ですから、私たちも、神様がそうしてくださったように、互いに愛し合い、赦し合い、日々を過ごして行こうではありませんか。神様の大いなる恵みに感謝して。
10月13日
「神に倣う者となりなさい」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙5章1~5節
本日の聖書箇所には「神に倣う」と言う言葉が出てきました。「神に倣う者」とはどのようなことなのでしょうか。いったい、誰が神様に倣えるのでしょうか。
今朝、聖書箇所では、「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」と告げます。このように告げられて、私たちは戸惑いを覚えるのではないかと思います。「神に倣う者となりなさい」と言われても、どうでしょうか。あの天地を造られた神様に、聖なる神様に、罪人である私がなぜ、どうやって倣うことが出来るのでしょうか。
5章2節は「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」とあります。
この愛に生きるということは、もっと具体的には、キリストの愛、私たちの為に十字架におかかりになって下さった愛、この十字架によって示された愛に生きるということなのです。ですからそれは献げる愛、仕える愛と言っても良いではないでしょうか。
人を愛するということ、こんなことは誰にも教えてもらわなくても分かります。そう思われている方が多くおられるのではないかと思われます。「神に愛されている」と言うことは、神様によって神様の愛する子どもとされたということです。
教会で、個別の面会などで、お話を聞かせて頂いている中で、このようなことを言われる方がおります。「神様の愛って、何ですか。神様の愛を信じれば、全てが変わるのですか」その方は、多くの方から愛されているにもかかわらず、その愛に気づくことが出来ず、その愛を素直に受け入れることが出来ず、苦しみながら日々を過ごしておられました。聖書に記されている神様の愛をお話をしましたが、中々実感がわかない感じがありました。しかし、聖書の中で、「隣人」について書かれている聖書の箇所を一緒に読み進めていた時のことです。「あなたの隣人は、誰ですか?」という質問から、神様の愛は、分け隔てなく、全ての者へと注がれていること、そのことに気づかされたのです。そして、自分が神様によって愛されているのだということを実感し、自分が愛してもらったように、自分も人を愛そう。と言う思いに至るのです。様々な葛藤が常について回ります。今もなおついて回り、そう簡単に切り替わることは出来ませんが、その方は、神様の愛を知ったことによって、自分が相手を愛することが出来る、本当の愛を知ることが出来たのです。
最後に、クリスチャンとなった私たち神の子は、神の国を相続することが出来ます。ただし、先ほどの避けなければならないことがあります。
十字架の愛が心に溢れるならば、罪を犯しそうになる心、悪に引っ張られていきそうになる心が強められ、十字架によって悪に打ち勝ち、罪の鎖を断ち切ることが出来るのです。
10月20日
「あなたを照らす光」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙5章6~11節
聖書が「光」と「闇」と言う時に、人間生活の営みの場所が暗いか明るいか、それだけではありません。そこに生きる人自身が光か。闇かを問うているのです。闇は世界にあるだけではありません。闇は、私たちの心の中までも支配します。
私たちが、闇に覆われた暗黒の中に置かれていたとしましょう。その暗黒のトンネルは、とても長いです。その中にいる状態であったとしても、その人自身は、光となって、光の子として歩むことが出来るというのです。自分自身がたとえまだ闇の中にあったとしても、闇が光の子に変えられるというのです。その変化点は、「主にあって」です。
さて、本日、礼拝に出席されている方々の多くの人は洗礼を受けています。自分自身が洗礼を受けるに至ったきっかけや、洗礼体験のことを覚えておられるでしょうか
わたしは、高校2年生の時に一度、洗礼を受けようとしておりました。私の出身教会は横浜本牧教会です。当時の牧師先生は、柿沼慎牧師でした。私が高校2年生の部活動中に、母から学校に連絡が入ります。「柿沼先生が亡くなったよ」と。柿沼慎牧師は、聖霊降臨日礼拝で、講壇で倒れられて、救急搬送されていたのです。その三日後、天に召されたのです。私の中では、柿沼先生がお亡くなりになったことをきっかけとして、「洗礼を受けたい」、と言う思いがなくなってしまったのです。そのような私の心の扉を神様がノックし続けて下さり、招き続けて下さったことによって、洗礼へと導かれたのです。洗礼を受けることによって、私は変わったことがあります。それは、神様は遠い存在ではなくて、私の身近にいてくださる存在なのだということを実感することが出来るようになったのです。
本日の聖書箇所の中で、大切なこと、イエス様の救いに与っているということが、私たちが「どのように生きるのか」ということの大前提であるということです。このイエス様との出会い、関わり無しにしては、真の生き方を選択することは出て来ないのです。
私たちは、あの十字架上のイエス様と一つにされて罪に死に、復活されたイエス様と一つに結ばれて永遠の命に与った者として生きているのです。
私たちがこの世において生きていく中で、いくつもの闇、暗闇と言われるような誘惑があります。さらにいうのでしたら、今、世界をなお暗闇の力が覆っている状態です。しかしそのような中にあって、私たちは光となっているのです。
その暗闇の中で、私たちは自らが光となっていることを忘れてはならないのです。なぜなら、自らが光となっていることを忘れるというのは、古い生き方に逆戻りしてしまうということです。それを忘れないためにはどのようにしたらよいでしょうか。その一番早い方法は、主の日の礼拝を守るという生活を続けるということです。
10月27日
「悪い時代を生き抜く秘訣」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙5章15~20節
私たちの人生にも「今は悪い時代です」と言わなければならない現実があるのではないでしょうか。その中で、信仰者は どう生きるのでしょうか。そのことを今朝の聖書は記しています。
さて皆さん。私たちが、神さまの御心が、何であるかを理解するためには、どうしたらよいのでしょうか。私は考えます、主なる神様の御意志を理解する手立てと言えば、やはり聖書のみ言葉を聞くことでしょうか。その主のみ言葉を、今を生きている自分に向けられた、主なる神さまからの言葉として、聞くことでしょうか。
そのような思いを持たれている方もおられると思います。他にも大切なこととして、祈ることですね。このことも欠かすことはできません。そのほかに主なる神さまの御意志を理解する方法があるでしょうか。
祈りつつ聖書に聞く、それ以外に道はないのではないか、と本日の聖書箇所を読むまでは思っていました。今までの思いが間違っているというわけではありませんが、今朝の御言葉は、そのようには語ってはいなかったのです。
そうでなくて、「酒に酔いしれてはなりません」と言い、そして酒でなく「霊に満たされるように」と語ります。聖霊に満たされることの大切さが本日のみ言葉を通して語られています。後ほど、少し語りたいと思います。
後半には、礼拝の話が語られています。悪い時代にどう生きるかを語りながら、主の御心、主の御意志を理解するという中心点を語って、そこからどんな悪い時代にも生きられる礼拝がある、というメッセージになっています。
一人で家でみ言葉を読むこと、祈ること、それはとても稚拙なことです。それと同時に、キリストの体なる教会に、集い、共に祈り、共に神様を賛美し、そして主のみ言葉を聞くこと、その大切さが語られました。
聖霊に満たされるとはどういうことでしょうか。18節には、酔っぱらうことと聖霊に満たされることとが並べて書かれています。どちらも喜びや開放感をもたらします。しかし酒に酔い続けた結果、その末路は放蕩です。
一方、聖霊に満たされ続ける結果、知恵が与えられます。この知恵とは知識ではなく、神様の存在を認め、神様の御心を悟る知恵です。
礼拝で新しいみ言葉を頂き、そのみ言葉を、多くの人に分かち合うこと、とても大切なことです。礼拝後の交わりの中で、神様から頂いたみ言葉を分かち合うこと、これがとても良き時となるのです。勿来教会で礼拝後に行っている“み言葉の分かち合い”があります。このみ言葉の分かち合いの時を持つこと、主の御心を共に分かち合う時、素晴らしい時ですね。
2024年9月
9月1日
「キリストの賜物」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙4章7~10節
信仰生活において大切なことは何でしょうか。「何が一番か、二番か」と言うわけにはいきませんが、私たちに「恵みが与えられている」、その確かさを失わないということが、今、とても大切なことだと私は思うのです。
先週の聖書箇所となりますが、様々な勧告の最初の部分で、「教会は一つの体」であり、その「一致を保つように努めなさい」と言うことでした。「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、全てのものの父である神は唯一であって」、あなたがたは一つの体、一つの霊、一つの希望にあずかっている」と語られていました。
教会には私たち一人一人、それぞれの個人がいるのです。教会に人が誰もいなかったら、教会ではなくなってしまうでしょう。神様からの恵みは「私たち一人一人に与えられているというのは、私たちが自分で恵みをつくり出すのではなくて、つかみ取るものでもありません。一人一人に恵みが与えられているというのは、イエス様によってなのです。
教会にはまことに多様な賜物が与えられています。それらの賜物が生かされ用いられて一つの教会、キリストの体は造りあげられていくのです。本日の聖書個所、そして今までの話を通して、言える二つのことをもう一度上げておきますと、一つは「わたしたち一人一人に、多様な恵みの賜物が与えられているという事実です。そしてもう一つは、それらの賜物は皆イエス様によって与えられたものであるということです。
エフェソの信徒への手紙は、この恵み、キリストの賜物を教会の役職や奉仕の業と結び つけました。今朝の箇所の直後には、「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣 教者、ある人を牧者、教師とされた」、そしてそれら教会の指導者たちは「聖なる者たち 」、つまりすべての信徒、キリスト者たちが「奉仕の業に適した者とされ、キリストの体 を造り上げていく」、そのために仕えると言われています。
キリストの恵みを与えられたということは、ですから、キリストの体の一部にされたことで、主から賜わった恵みとは、その御身体の一部とされていることと言ってもよいのではないでしょうか。私たちの中 には弱く見える人もいます。見えるだけでなく、文字通り弱くなっている人もいます。自分にまったく自信を持てない人もいます。
お一人お一人に主なるキリストから、賜物を頂いています。その頂いた賜物を、土の中に隠しておくのではなくて、その賜物を活かして、豊かな生活を送って行って欲しいと思うのです。
私たち一人一人に与えられて、神様の恵みに感謝し、その恵みを十分に活かして、日々喜びをもって過ごしてゆきたいと思うのです。
9月8日
「教会の成長」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙4章11~13節
本日の聖書箇所はエフェソの信徒への手紙4章11節以下です。11節には、五つの教職の名前が上げられていました。使徒と預言者、それに福音宣教者、そして牧者と教師です。
「使徒」が復活のイエス様を証しするために遣わされたように、「預言者」も使徒と共に一つの地域を超えて、世のどこにでも福音を語るべき人であったのです。さらに福音宣教者、牧者、教師と言われている人たちが上げられていました。
「聖なる者たち」とは、全てのキリスト者のことを言っています。すべてのキリスト者が「奉仕の業に適したものとされるように」、そしてすべてのキリスト者が「キリストの体を作り上げていくように」、そのために使徒、預言者、福音宣教者は仕えるべくして、イエス様によって与えられたのでした。
今朝もわたしたちは、神様の招きにより、この教会へと集められました。そして今、私たちは礼拝を捧げています。主を賛美し、祈り、そして聖書のみ言葉を頂きました。礼拝をとおして私たちは、復活したキリストにつながっています。キリストの体の部分とされて、キリストの体を築き、その一員として私たちは救いにあずかっています。
私たちの救いや完成は、教会なしにはあり得ないと言っても過言ではありません。
キリストの体である教会と共に、その中にあって、救いと完成が与えられているのです。真の教会があっての私たちです。一人一人の救いと言わなければならないのです。教会のない救済はない、とも言えるのです。
さて、私たちはなぜ教会に来るのでしょうか。本日の聖書箇所を含めて、私は2つのことを挙げたいと思います。
まず第一に、教会に集う方々一人一人が、父なる神様を共通の「天の父」とする「神の家族」であるのです。それぞれが神の家族の一員だからです。お互いが家族であるなら、愛し合い、励まし合い、戒め合うのは、当然のことです。そこには、地上の家族関係にも勝る喜びがあります。
二つ目は、教会に集う一人一人がキリストの「からだ」の一部とされたからです。
教会は教会に集う人たちが互いに愛し合い、互いに励ましあい、互いを促し合い、互いに仕えるそのような場所であるのです。
人がイエス様を信じて救われると、その人はキリストのからだの一部にされます。同様に、教会に集う私たちは、他のクリスチャンの励ましや助けがなければ、本当に完全な成長を遂げることは難しいのです。これらの理由から、礼拝出席を、自分の生活の中心に置いて、派遣によって喜びをもって、日常生活へと送り出されていきたいと思うのです。
9月15日
「愛に根ざして」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙4章14~16節
先週のみ言葉になりますが、少し気になる言葉がありましたので、取り上げてみたいとおもいます。13節のみ言葉の中にありました。「成熟した人間になり」と言う言葉が気になりました。聖書は、「わたしたちは、もはや未成熟なものではない」と言っているのです。未熟な人の人生は、そのような風頼みの危険な船旅同然と言うのです。
本日の聖書箇所の中心聖句を14節といたしました。おそらく14節が一番目を引くのではないかと思われます。14節の中で「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教え」と書かれています。「悪賢い」というのは、かなりきつい言い方だと思われます。「悪賢い」という言葉、それはギリシャ語では「サイコロばくちをする」という意味がある言葉であるというのです。間違った教え、悪だくみの事柄等は、すぐにわかってしまうようなものです。つじつまが合わなくなってくるからです。小さい時に、親に何かうそをついて、ごまかそうとしても、なぜかすぐにわかってしまうのです。なぜ 分かってしまうのか、今になって考えてみますと話のつじつまが合わないことが多かったからでした。
さて、先ほど、未熟な者について見てみましたが、聖書では、もはや未熟なものではないと言っています。キリストの体の一部とされた、神の子に対する信仰と知識において、一つとされた人は、成熟した人間になっているというのです。
では、先ほどの未熟な者とは違った成熟した人間のあり様はどのような者であったのでしょうか。二つの文章から見てゆきたいと思います。
一つ目は「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって、成長していきます。」と言われています。「愛に根ざして真理を語る」この言葉は、キリスト者の完全を語るこの箇所に出てきます。イエス様は「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなた方も完全なものとなりなさい。」と言われました。(マタイ5章48節)。それは隣人を愛するようにと言い「敵を愛しなさい」という文脈の中で語られた言葉です。キリスト者の完全とは何でしょうか。あらゆる意味で完全無欠で、何でもできる、全能の人間。間違えることが一切ない人のことを言っているのでしょうか。そうではありません。「愛に根ざして真理を証しする者である」、と言う意味で語っているのです。
ここに集う私たちの成長、言うのであれば、キリスト者の成長は、教会の成長と共にもたらされます。“キリストにある”“キリストと共に”であるならば、未熟なものではないのです。キリストに向かって成長する人にされているのです。イエス様に結ばれている中で、キリスト者の完全はすでに始まっているのです。キリストにあるものとされて、頭であるキリストからくる成長の力を受けています。この素晴らしい喜びを感謝して、今週も歩んでまいりたいと思うのです。
9月22日
「キリストに結ばれて」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙4章17~24節
洗礼を受けて、キリスト者となった私たちは、日々の歩みをどのように整えていけばよいのでしょうか。そのことをどこで学ぶのでしょうか。答えは明解です。それは教会で学ぶのです。聖書を読み、神さまのみ言葉を受け、祈りを合わせ、共に神の国に向かって歩む、この教会において、私たちはキリスト者としての歩みを学び、整えられていくのです。
私たちはキリスト者なのです。キリストを着た者なのです。このキリストの名によって呼ばれる私たち一人一人の交わりは、聖霊の御支配の中で清められていかなければならないのです。教会にこそ、人間同士の交わり、関わり方のあるべき姿があるのです。
皆さん、キリスト教信仰とは何でしょうか。それは言うまでもなく、イエス・キリスト、イエス様を信じる信仰です。
では、救われる前の自分たちの生活とはどういうものだったのでしょうか。17節後半~19節に「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」と続きます。
これらのことはいったい何に繋がるのでしょうか。それは「神の命から遠く離れる」と言うことです。神様の命から遠く離れれば、どのようになるでしょうか。それは、知性は暗くなり、それでも心をかたくなに自己中心的に生きるのであれば、「無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知らない」状態になると言われているのです。
パウロは、ここまで言うのか、と思うほどに並べ立てています。まるで、神様を信じていない人は皆、皆ひどい人間のようです。しかしパウロは、神様を信じていない人はろくでなしだと言いたいのではありません。神様を信じていない人は、目と心を地上の事だけにしか向けないという事実を、このような言い方で指摘をしているのでした。
22節後半「滅びに向かって・・・人を身に着けなさい」といわれました。ここでパウロは、私たちが洋服を着て、また脱ぐときのような表現をしています。「古い人を脱ぎ捨て」「新しい人を身につけなさい」と。この「古い人」「新しい人」と言う表現は、パウロは、私たちの人間としての存在そのものについて述べています。
私たちは、根本的に、徹底的に新しくされました。それ故、神様を裏切らないのです。キリストを裏切らないのです。愛する者を裏切らないのです。神様が喜ばれることを自分も喜ぶのです。神様が悲しまれることを自分も悲しむのです。罪を憎み、これと戦います。自分の弱さを知る故に、神様に助けを求めて祈ります。隣り人を愛する為に心を使い、時間を使い、労力を使います。それが、キリストという真理に基づいた、正しく清い生活なのです。
9月29日
「雀の神 私の神」 荒瀬 牧彦牧師
(カンバーランド長老キリスト教会田園教会)
ルカによる福音書12章4~7節
イエス様が弟子たちに言われました。「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」。このことを、イエス様が「友人」として語り掛けているということは重要です。上から強圧的に無理難題を吹きかけているのではなく、同じ地平に立ち、弱る時も一緒にいてくれる「友」として、怖がり屋の弟子たちに「恐れなくていい」と言ってくれているのです。
そこで、登場するのが雀です。雀というのは我々にとってそうであるように、イエス様の時代の人々にとっても、ありふれた存在でした。「5羽の雀を2アサリオンで売っている」と言われたら、屋台に並んでいる雀がすぐ思い浮かんだでしょう。アサリオンはローマの青銅の貨幣で、1デナリオン(労働者一日の賃金)の16分の1。高いものではありません。人々が特別な価値などまったく見出さない小さな鳥です。でも、その一羽さえ、神がお忘れになることはない。
ところでマタイ福音書の平行箇所(10:26-31)と比べると面白いことに気付きます。マタイだと2羽の雀で1アサリオンなのに、ルカだと5羽で2アサリオン。あれれ? 4羽で2アサリオンのはずが、なぜ5羽なのか。値をつけられないような小さな雀をおまけでつけたのでしょうか。
以前、ある先輩牧師が「私はこの個所で励まされた」と話してくれました。その先生は神学校の5人しかいない学年で、他の4人は優秀で立派なのに自分は勉強にも信仰にも落ちこぼれで、劣等感に悩んでいたそうです。でも、「おまけの5羽目も主は愛してくださる」と知って、自分のような者も必要としてくださるのだ、と励まされたそうです。なるほど面白いと笑って聞きましたが、今考えてみますと、これはイエス様の思いにかなった解釈ではないでしょうか。おまけの雀一羽さえ忘れないのです。
「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。雀より高い値がつく商品だから「まさっている」のではありません。イエス様は、尺度をひっくり返したのです。「力が強いほうが偉い。多く持っている者が幸いだ」という人間観をひっくり返したのです。「貧しい人は幸いだ」、「小さな群れよ、恐れるな」とイエス様は言われました。小さな雀よりなお小さい自分を知る時、そこに注ぎ込まれる神様の愛を受ける者となります。雀よりは高いから大丈夫、ではなく、真に小さい自分を知り、しかしその自分を神が愛し、用いてくださることを確信できるという点でまさっているのです。
2024年8月
8月4日
「主は与え、主は奪う」 内田 弥生神学生
(日本聖書神学校3年生)
ヨブ記1章6~22節
ヨブ記のテーマは「苦難」。そして、ヨブにとっては、理由が思い当たらない、理不尽な苦難である。ヨブは「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」主との天上での会議でサタンは、神から豊かな財産を与えられ、その見返りに神を信仰しているに過ぎない者。利益を与えられているからであればこそで、理由もなく神を信仰するはずがないと言うのがサタンの意見だ。その富をことごとく奪い去ったなら、信仰深いと言われているヨブも神を呪うに違いない。とうとう、主はサタンに彼のもの一切をいいようにしても良いという許可を下す。そして、避けることのできない災いと他の部族による奇襲というやり方で、瞬く間に家畜や子どもたち、使用人もことごとく殺されてしまう。ヨブの受けた苦難は計り知れない。20節「ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏してして言った。『わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。』」沈黙と服従の姿、このような時でさえ、ヨブは神への服従の行為で神への忠信を表わす。
ここでのテーマは、人は神を欲得を離れて信じることができるのか?人は利害抜きで、神を信じ続けることができるということを信じられるものであるかどうかということだ。ヨブは、私たちに代わって、全ての人が味わう体験を代弁したのだ。そして、神の意志を受け入れた。神の愛の無償性に宿る深い贈り物として与えられる神への信頼。それは2章10節「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」という言葉につながっている。これは単なる言葉ではなく、決意の言葉であり、ヨブ記における最も深い信仰の提示であるということだ。「主は与え、主は奪う」ここでいう主は、契約の神、恵みの中に自分をご自身の僕として立たせてくださった神が、この災いを自分にお与えになったと告白しているのだ。ヨブから全てが奪われた今、自分は裸である。生まれてきた時と同じ裸に帰っただけのことであるという、取り去られるものはすべて取り去られた状態、つまり生まれた時と同じ裸だと言っているのだ。
私たちの命も私たちの苦労によって得た全てのものは、私たちがこの世に生きている間、これを神様のご用に役立たせるために、神様からいっとき私たちに委ねられているものなのだ。「主は与え、主は奪う」それは、これらに勝る価値のあるものを私たちに与えて下さるためである。私の所属する教会では、献金の祈りの時に、「これらを神様の手の中で更に良いものに変えてくださり、神様のご用のためにお用いください。」と祈る。私たち自身もそのように用いて下さるお方なのだ。そのことを信じているのがキリスト者であるわたしたちである。ヨブのように神への決意を告白しようではありませんか。神を信頼し、神にゆだねて今日も明日も生きるものとされる私たち。神に感謝し祈りましょう。
8月18日
「内に働く御力」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙3章18~21節
8月3日(土)から、日本聖書神学校3年生の内田弥生神学生が、夏期伝道実習で勿来教会へ来られました。内田神学生は証の中で、牧師先生から「内田さん、あなたは洗礼を受けたらどうかな。」との言葉に対して、「わたしは、洗礼なんて受けません」と、当時きっぱりと断った、そのようなメッセージがありました。
神さまの愛の御力によって、その御力が内田弥生神学生の内に働かれて、「洗礼を受けたい」と言う気持ちが沸き起こってきたのです。
3章18―19節の中で著者は、神様の愛を祈り求めているのではないのです。祈り求めてはいないのです。それは、神様の愛はすでに完全に表されているからなのです。
2章4-5節には、次のように記されていました「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって…、あなたがたの救われたのは恵みによるのです。」と書かれています。私たちに必要なことは、神様の愛が増し加えられること、ではなくて、私たちが神様の愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」がどれほどであるのかを理解することです。この愛は「人の知識をはるかに超える愛」であるのです。
わたしたちの生涯の歩みの中で、困難や落胆、失望、挫折を味わうことがありますが、それでもキリストが私たちの内に住んでいて下さるということは、私たちが、神様の力によって、常に覆われているということです。
3章14節以下は、パウロの見事な祈りであるのです。それは信仰の最高の内容を祈った、立派なものであると言われています。
祈りは、神をほめたたえることでなければなりません。竹森満佐一という牧師は、「私たちの本当の祈りは、ただ、これらのことに対して、感謝することだけであるのです。感謝と言うのは、どういうことか。感謝と言うのは、それは神様の私たちに対してなさることを、そのまま受け入れる、と言うことである」と言っていました。
冒頭で、内田弥生神学生の証しを少し紹介しましたが、神様のなさることは本当に不思議だと、感じることがあります。
私たちはこの言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。「神様は全知全能である。神様はすべてのことがお出来になる」。私たちの信仰生活の中でこのことはとても大切なことなのです。すべてのことがお出来になる方、それが神様のみなのです。
私たちの祈りの姿勢として、どうぞ焦らずにじっくりと粘り強く祈ることをお勧めします。じっくりと粘り続けて祈った時に見えてくるのは、主なる神さまのなさることが、自分たちの求めていることをはるかに超えていることです。そのことに気づかされるのです。
8月25日
「聖霊による一致」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙4章1~6節
エフェソの信徒への手紙は教会とキリスト者の生活を築く使徒の勧告を語ります。そこで勧められたのは、「神の招きにふさわしく歩む」と言うことです。そして特に「平和の絆で結ばれて霊による一致を保つように努めなさい」と言うことでした。
本日の聖書箇所のポイントとなる言葉は、「一致」です。パウロはその根拠を、4~6節で、「一つ」という言葉を七回繰り返して使うことによって宣言いたしました。
パウロはこう宣言するのです。4~5節「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」キリストの体であるキリストの教会は一つしかありません。
イエス様による贖いがあり、それまではバラバラであった者たちが、一つの霊によって結ばれて、父なる神様に近づく交わりの中に入れられていきます。バプテスマによってそこに入れられて、霊の一致、教会的一致がすでに与えられているのです。
パウロが使徒的信仰に基づき、その時代の教会とキリスト者が課題として直面している試練を深く見抜いて勧告したこと、それは「霊による一致」を保つように熱心に努めなさいと言うことでした。これは今の私たちの生活にも、通じる勧告であると思います。わたしたちは今、会堂に集められています。しかし、様々な事情によって、この場に共に集うことが出来ない方もおられます。病気の方、施設におられる方、お住いが遠くにあって、共に礼拝に与ることが出来ない方等がおられます。しかし皆、神様がイエス様によって創り出し、そして与えて下さった「霊による一致」に与っているのです。
キリストの体なる教会、それはどこの事でしょうか。この勿来教会もそうです。日本全国、世界にある教会の一つ一つが、キリストの体なる教会であるのです。私たちの勿来教会には、10人前後の方々が共に礼拝に集います。10人それぞれが違った人格を持ち、違った価値観を持ち、一つ一つに違った思いを持っています。一緒の部分はほとんどないということが出来ます。しかし私たちは「一致」していることがあるのです。「キリストによる一致」です。
先週、日本聖書神学校同窓会研修会へ出席をさせて頂きました。「本田庸一の足跡を辿る」というテーマでした。二日目、弘前西教会を訪問しました。この教会は、石川敞一牧師が、開拓伝道をされた教会です。開拓伝道時から現在に至るまでの50年間、石川敞一先生の中でのコンセプトがありました。それは「キリストによる一致。聖霊による一致」でした。このことを祈り続け、願い続け、思い続け、そして実践し続けて今があるというのです。まさに、「キリストによる、聖霊による一致」を牧師と信徒の方々が一丸となり、意識をして、聖霊の一致による交わりを、心から喜んでいる、そのような姿がうかがえました。
全てのことをご存じの神さまに感謝し、大胆に祈り求めて行こうではありませんか。
2024年7月
7月7日
「キリストにおいて一つ」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙2章19~22節
19節の始まりの言葉は「従って」とあります。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族」と続きます。11節の「だから、心に留めておきなさい」で始まり、14節では「実にキリストはわたしたちの平和であります。」と語られて、イエス様が十字架によって敵意を滅ぼして、近くにいる人も、遠く離れている私たちも、一つの霊に結び、御父に近づかせてくださると語られてきました。今その段落の最後に結論が語られるのです。それが「従って」という言葉からです。その結論は、「教会とは何か」と言うことを語っているのです。
当時の教会はどのような教会が多かったのでしょうか。教会は小さく、とても頼りになれるような存在ではありませんでした。そしてユダヤ人と異邦人の分裂を抱えており、色々な思想や生き方によって引き裂かれて、何の確かさも、安心も、安全もありませんでした。しかし、その教会が、キリストの福音の結論であると、パウロは言うのです。
続いてパウロは、教会の建物について語るのです。「教会は建物である」と言って、その基本構造を語っているのです。パウロはコリントの信徒への手紙一においても、教会を「神の建物」として語り、「わたしは熟練した建築家のように土台を据えた」と語りました。すでに据えられた土台は、イエス様であると語られたのです。
家を建てる時に、大切なことは何でしょうか。土台です。土台がしっかりとしていなければ、どんなに立派な建物であってもダメです。例えば、土地が沼地の場所に、立派で豪華な建物を建てたとしても、すぐに倒れて壊れてしまいます。それは、土地がぬかるみ、不安定なところに建ててしまったからです。
新共同訳聖書では、「かなめ石」と訳しておりますが、ここを「隅の親石」と訳したとしますと、使徒と預言者という土台のさらに根本にある土台の意味となります。ここでは、これらの両方が意味されているということが出来るのではないでしょうか。キリストは教会の根本にある土台であり、同時に教会の目標でもあるのです。ちなみに、聖書協会共同訳を読んでみますと、「かなめ石」ではなくて「隅の親石」となっておりました。
世界に、日本に、福島県に、いわき市に、たくさんの教会があります。また、その一つ一つの教会には、教会に集う人たちがいます。そこに集う人たちは誰一人として同じ人はいません。あらゆる面で違いを持っている人達が集まるのです。多分、世の中で敵意という隔ての壁を築き合うことさえあります。でも教会で私たちは人間同士の違いを、はるかに超えた、キリストの十字架によって示された神様の愛で結ばれる一致を実感します。それは単に、わたしたちの感情や思い込みではないのです。神様の聖なる霊によって、一つに結ばれているからです。主の平和、キリストによる一致、神様に感謝!祈りましょう。
7月14日
「秘められた計画」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙3章1~9節
本日の聖書箇所は、3章です。1節を見てみましょう。「こういうわけで、あなた方異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは」と言う書き出しになっています。パウロが言っている「キリスト・イエスの囚人となっているわたし」この表現は、キリストの使徒パウロが自分を語った言葉として他の手紙にも出てきます。
パウロはここで、自分は囚人となっていると言います。しかし、この人生のどん底とでも言うべき状況の中で、彼はなお自分の境遇を嘆いているのではないのです。彼は、喜びと誇りを持って、「私はあなたがたの為にキリスト・イエスの囚人となっている」と告げるのです。ここで大切なことは、パウロは単なる囚人ではなく、自分を「キリスト・イエスの囚人」だと言っているということです。パウロが囚人となったのは、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えたからです。
パウロが「囚人」とされたのは、神様が無力であったからでしょうか。決してそうではありません。神様がその力を働かせたことによってです。神様が使徒パウロを用いて、その救いの御計画を遂行していることの表れであるのです。パウロはまた自分がキリスト・イエスの囚人になったのは、「あなたがた異邦人の為」とも言いました。
キリスト教というのは、数ある生き方や価値観の一つを与えるというような小さなものではありません。神の奥義を知らせ、この神の奥義によって人を新しく生まれ変わらせ、この奥義に人々を参加させるものなのです。
皆さんと考えてみたいことがあります。それは、異邦人の救いとは何でしょうか。キリストの奥義であって、パウロが囚人になってまで伝えた異邦人の救いとは何でしょうか。聖書の中では、私たちが救われるのはどういうことであると言っているでしょうか。
7節.「共に」を三つの言葉で語っています。「共に受け継ぎ」、「共に一つの体に属し」、そして「共に約束に与ること」が、神の秘められた計画にある救いであるのです。
福音は、一言でいえば、神の御子キリストが、私たちのために命をかけて死んでくださった事実の事なのです。その事実によって、神様との間に、また罪びとである私たち人間同士の間にも、破られることのない平和が築かれ、キリストの体なる教会に生きることが赦されたのです。福音は、キリストの計り知れない富を伝えているのです。キリストにある神様の愛から計り知れない恵み、数えきれないほどの恵みが満ち溢れているのです。そのすべてが神様の恵みであるのです。それが私たち自身の弱さによって、少しも衰えないことで分かるのです。パウロが言っていたように、神様の恵みは、私たちが弱い時にこそ強いのです。神様の恵みは、弱さの中でこそ、力を発揮するのです。
7月21日
「苦難はあなたがたの栄光」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙3章10~13節
パウロは、イエス様の福音を宣べ伝えて、キリストの囚人となったと前回の聖書箇所に
記されておりました。このことは、パウロによって福音を伝えられた者には、少なからずとも、ショックを与えたのではないかと、想像出来ます。でも、パウロが囚人であることには変わりません。こんなことも言えるのです。「神様に救われているはずの者が、囚人となるとはどういうことなのか。」と。この思い、この感覚は分かるのではないでしょうか。
12節。パウロは、自分がこのような神の深く壮大な御計画を知らせる働きに仕えているのですから、今は牢獄にとらわれていたとしても、だからと言って、「落胆するな」と言うのです。苦難にあっても神様は必ず、恵みを現して下さるのですから。むしろこのことは「あなたがたの栄光」なのですと、言っているのです。パウロは信仰によって天のあらゆる霊的な祝福を見ているのです。
皆さんも、日常生活を送っている中で、喜怒哀楽の感情は、常に起こりうる状態ではないでしょうか。これは、信仰を持ったからと言って、無くなるものでもありません。むしろこの喜怒哀楽と言う豊かな感情表現をすることが出来るからこそ、豊かな日常を送ることが出来るということもできます。
12節の主語は、「私たち」です。私たちは、キリストの十字架の福音の奥義を知った異邦人です。私たち異邦人は、十字架にかけられたキリストに対する信仰によって、確信をもって大胆に神に近づくことができるのです。救われる以前は、主なる神さまから、遠く離れ、神に背を向けて歩んでいた私たちですが、主なる神様を「アバ父、お父ちゃん」と親しく呼べる、神様の子どもとして頂いたのです。
約紀元30年ごろの事、ローマ総督であるポンティオ・ピラトのもとで、ゴルゴダの丘で行われた、イエス様の十字架刑による死刑は、歴史的な出来事なのです。私たちはイエス様の十字架と御言葉の確かな約束に立つからこそ、確信があるのです。
最後になりますが、今一度考えてみましょう。私たちが生きていく上で、困難や苦しみというものと無縁であることは出来ません。何の困難や苦しみもなく生きている人、皆さんは見たことがありますか?もし見たことがあると思う人がおられたら、その方は単に、表にそのような姿を見せていない人であるのではないでしょうか。このことは確信をもって言っても過言ではありません。苦難や苦しみと言うものと無縁な人などいないのです。
私たちはまことに栄光に満ちた歩みへと召されているのです。この歩みへと私たちを導くために、イエス様は来られたのです。イエス様は来て下さったのです。このことを喜び、感謝しつつ、今週もまた、イエス様と共に、御前に御国を目指して歩んでゆきましょう。
7月28日
「キリストはわたしたちの平和」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙3章14~19節
最近皆さんは、手紙を書いているでしょうか。最近は、LINEやメールはするけど、紙を使っての手紙は書いてないな?と言う人は増えているのではないでしょうか。そもそも手紙は、目的をもって相手に手紙を書きます。聖書の中の手紙の場合も同じです。
「こういうわけで、わたしは御父にひざまずいて祈ります」と言われました。聖書の時代、祈りはどのようにしていたのでしょう。祈る時は、立って祈りをしていました。ひざまずいての祈りがなかったわけではありませんが、何か特別な時の祈りの姿でありました。しかし使徒たちは、教会のため、その一人一人のために、ひざまずいて祈ると言ったのです。
さて、わたしたちは時に、崩れそうになることがあります。もしかして今も崩れそうになっている人もおられるかもしれません。強くされなければ、本当の信仰生活を生きることは出来ません。ですから強められなければならず、「内なる人」が強められなければならないのです。「あなたがたの内なる人を強めてくださるように」と祈られる通りなのです。「内なる人が強められる」のは、外面をとりつくろうことではありません。
次週から、日本聖書神学校3年生の内田弥生神学生が、夏期伝道実習に来られます。3日土曜日のお昼頃到着して、9日まで、この勿来教会で実習をされます。10日~12日にかけて、東北教区主催の、猪苗代青年ワークキャンプへ出席をします。私自身も、ワークキャンプに出席するのは初めてのことです。しかし、私自身が小中高校生の頃、教会のキャンプや、教区の青年キャンプに出席していたことを思い起こします。今のように、全国的に教会に集う子どもの人数が少なかったわけではありませんでしたので、大勢の同年代の方と共に、キャンプに出掛けました。ですから、キャンプソングとかが大好きでした。
内なる人が強められるようにと祈った使徒の祈りは、キリストの大きさ、そしてその愛の大きさ、深さを知るようにとの祈りになりました。信仰の内なる人が強められるには、キリストの大きさ、そしてキリストの広さ、長さ、高さ、深さに対する理解が必要なのです。その愛が人間の知識をどれほどはるかに超えているのかを知ることです。それを知る人に勇気が与えられるのです。弱くされた心は強くされるのです。忍耐する力、そして確かに希望する力が与えられるのです。
「知る」「理解する」と言われているのは、頭で理解する知識を言っているのではありません。信じて知ることは、信頼を込めて知ることなのです。
私たちも今日このみ言葉を聞きました。私たちの内なる人が強められるようにと祈られました。キリストの広さ・長さ・高さ・深さを私たちが理解するようにと祈られました。それて神様に栄光がありますようにと、賛美する使徒の祈りを聞いたのです。ですので私たちも言いたいと思うのです。「アーメン」と。
2024年6月
6月2日
「信仰による救い」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙2章7~10節
キリスト教における「救い」とは何でしょうか。キリスト者とは、洗礼によってイエス様に属する者とされて、それによって神の子とされた人のことです。そしてそれが救いに入れられているということもできるのです。
「自らの力によるのではなく、神の賜物です。」とあります。「恵みにより」と言うのは、神様の憐れみ、神様の慈しみによるということです。神様の慈しみによって、恵みが与えられて、恵みによって救いが賜物として今与えられたというのです。神様の愛、神様の救いは無償です。何の見返りもないのです。
私たちは時に 勘違いをしてしまうことがあります。「全てが自分の力でできている」という勘違いです。そのような思いになってしまいますと私たちは神様への感謝の思いがなくなってしまうのです。わたしたちは神様の愛の御業によって、神様の御力によって、支えられ導かれて、力を与えられて、物事を行うことが出来るのです。その神様からの御業なしでは何一つすることが出来ないのです。
救いとは、ただ神様の憐れみによって、私たちに差し出して下さった神様の賜物であるのです。ですから、私たちが救われたのは、自分の力でもなければ、自分の働きでもないということが出来るのです。ですから、繰り返しとなりますが、神様の救いは、神様の一方的な大いなる神様の御業であり、賜物であるということが出来るのです。
先週、神様の憐れみ深い愛によって生かされていることを、三つの「共に」と言う共通語を含むみ言葉をみました。キリストと共に生かされるということは、キリストと共に復活させられて、キリストと共に天の王座に着かされていること、と言うことを先週のみ言葉で示されました。その救いは何のためでしょうか。一つ挙げられることは、「誇る」ことではないでしょうか。キリスト共に生かされる救いは、自分の力でよるものではないということが示されました。キリストと共に生かされる救いとは、「キリスト・イエスにあって」であるというのです。そのために活動しているのは私たちではありません。それは神様です。
信仰生活の目標は、「善い業」の中を歩むことと言われていますが、では、この「善い業」とは何でしょうか。実は具体的なことは何一つ聖書には書かれていません。
「キリストにあって」この言葉は、私たちの合言葉とも言えるでしょう。キリストにある、ということが、善い業の拠点であるのです。それが試練の中での砦です。私たちもキリストにあって、善い業の中を歩むのです。善い業の中を前進するのです、前進できないと思う時には、キリストにあって、キリストの言葉を待つのです。その待つということもまた、神に仕えることとしてとても大切なのです。その善い業のために、私たちは救いに入れられたのですから。
6月9日 子どもと共に守る礼拝
「この花のように」 佐野 治牧師
マタイによる福音書6章27~29節
イエス様は、今日の聖書箇所で、「野の花がどのように育つか、注意してみなさい。」と言っています。
勿来教会のお庭をよく見てみてください。大きな目立つお花以外にも、小さくて、あまり目立つことないけれども、とてもきれいなお花がたくさんあります。どんなお花を思い起こしますか。たとえば、タンポポやシロツメグサというお花。よく見てみると、あまり目立ちませんが、とてもきれいなお花です。
さて、神様は全てのものを造られたと言われています。と言うことは、私たち人間も造られたのです。神さまは、私たち人間のことがとても大好きです。その中でも、子どもたちが大好きでした。イエス様も同じです。イエス様も、子どもたちのことが大好きです。どんなところが好きなのでしょうか。子どもたちは、素直で純粋な心を持っていると言われています。その素直で純粋な心がとても好きだったのです。子どもたちのように、素直で純粋な心をもって、私のことを受け入れなければ、神様の国に入ることは出来ませんよ。とイエス様は言われました。
さて、先ほど、お花の話をしたときに、“あまり目立たない花”があると言いました。この時期、お庭には草がたくさん生えてきます。あまりにもたくさん生えてしまうので、草刈りをします。礼拝が終わったら裏のお庭を見てみてください。きれいに草刈りがされています。教会の人がきれいに草刈りをしてくれました。
神さまは、草刈りですぐに駆られてしまう葉っぱ、また、一日だけで枯れてしまうような野の草花にも、たくさんの愛を惜しみなくふり注いでくださっているのです。
ある本にこんな言葉が書かれていました。「花はさくだけでいい。人は生きるだけでいい」と。神さまから私たちは命を与えられて、この世の中に生まれてきました。そして神様は、この世に生まれた私たち一人一人を、心から愛して下さっているのです。
皆さんは自分が生きていること、それが当たり前のこと、と思っていませんか。でも不思議に思いませんか。ここに私たちが生きていること、それ自体が奇跡の出来事であるのです。みんな、心臓は分かりますか。心臓は、私たちが起きている間も、寝ている間も、ずっと動き続けています。不思議です。心臓は、ずっと動き続けています。ずっとです。そして時が来ると、止まるのです。それは、みんな一緒です。それはいつでしょうか。私たちには分かりません。分かるのは神様のみです。
外の草花を見てみましょう。草花も神様からの愛を頂き、今日もすくすくと成長しています。すべてのものを成長させてくださるのは神様です。神様に感謝をして過ごしてゆきたいと思います。 お祈りしましょう。
6月16日
「受けた恵みを忘れずに」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙2章11~13節
今日も、私たちは、信仰を与えれて、神様によって招かれ、導かれて、礼拝堂に集められました。まだ信仰を求めて、教会に来ている方もおられますが、信仰とは一体何でしょうか。信仰にはいろいろな表現があると言われています。本日与えられた聖書のみ言葉の冒頭「だから、心に留めておきなさい」とあります。「心に留める」と言うのは、「記憶する」と同じ言葉なのです。口語訳聖書を見てみますと「だから、記憶しておきなさい。」と訳されています。信仰には、記憶し、心に留め、いつも思っていることがあるのです。
信仰の中心に留め続け、繰り返し思い起こすこと、そして礼拝の中で起きること、それはキリスト・イエスから離れて、キリスト・イエスと関わりなかった私たち、それゆえ神の群れの外、契約の外で、希望なく、神無しにいた私たちが、キリストの血によって、今や神に近い者、神と親密な者にしてくださった。それで、神の民の中に回復され、約束の契約に入れられ、希望を持つ者とされ、神無き者でなく、もはや何者によっても神から切り離されることのない仕方で神の愛に入れられています。このことを心に留めて、どんなときにも思い起こすのです。それが信仰なのです。
私たちは、神さまからの救いの恵みをたくさん頂いています。しかしそのことを、忘れてしまう、そんなことはないでしょうか。その恵みを受け取った時は、恵み深い神様に感謝の思いを持っていますが、時と共に忘れてしまうのです。そうなのです。人間は、忘れっぽいのです。旧約聖書の人々もそうでした。神様の救いの手によって、エジプトを脱出することが出来、神様の奇跡によって、自由が与えれました。
神様の恵みによって救い出されて、自由な民とされたのに、やがて豊かになり、自分に自信を持つようになると、恵み深い神様のことを忘れて、自分の都合の良い神様を信じるようになるのです。そのことを神様は、旧約聖書、申命記を通して警告をしているのです。
しかし、異邦人キリスト者は、キリストを信じ神の救いの恵みに与る者となってからは、本当に自分がそのような「過ちと罪のために死んでいた者」であったという事実を感謝と喜びをもって振り返ることができるのです。
13節の「遠い者」「近い者」という言葉は、イザヤ書57章19節の「わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす」に基づいています。しかし、イザヤ書57章19節の「遠い者」「近い者」は、いずれもイスラエル人を指す言葉でありました。即ち、エルサレムから遠く外国に離れて生きているイスラエル人と、近くにいるイスラエルの人々のことが言われているのです。
主なる神さまから、私たちは、救いの恵みの御業を預かっているのです。そのことを忘れずに、感謝をもって日々を過ごしてゆきたいと思うのです。
6月30日
「キリストが私たちの平和」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙2章14~18節
本日の新約聖書の箇所は、エフェソの教会での話となりますが、ここでは問題が深刻化していたようです。何の問題が深刻化していたのかと申しますと、最初はユダヤ人のクリスチャンばかりであったところが、キリスト教信仰が次第に広まって行ったこと、つまり外国人のことです。ここでは「異邦人」という言い方をしていますが、その異邦人がたくさん教会に加わってくるようになりました。しかし、両者はなかなか、うまくやっていくことができません。同じイエス様に従って、歩みを起こしている人たちには変わりありませんが、おそらく考え方やこれまでの慣習などが「キリストにおいて一つになる」ということを阻害していたと思われます。
本日の聖書箇所の冒頭に「キリストはわたしたちの平和である」と記されています。「キリストが平和をもたらす」とか、「平和を造り出す」ということではなくて、キリスト自身が平和であるというのです。そしてここでいう“私たち”というのは、ユダヤ人だけではなく、外国人、異邦人も含むすべての人々を指します。隔ての壁という言葉が出てきます。「垣根」と理解したらよいでしょう。垣根とは何でしょうか。自分の家の敷地と、そうでないところに線引きをするのが垣根です。平和のキリストは、人と人との間に線引きをされた垣根を壊されるのです。
エフェソの教会の人々にもなお「敵意」がありました。「敵意」それは、ユダヤ人と外国人の間の敵意だけではありません。罪を背負う人間もまた神さまに対して敵意を抱く時があります。敵意がある限り、隔ての壁は無くなることはありませんし、壊れないのです。
「キリストによってわたしたち両方の者が」と書かれています。イエス様の、み前に立つ人は誰でも新しく造りかえられた人として歩みを始めていきました。そこではユダヤ人も外国人も平等に生きていました。「わたしたち両方の者」とはキリストにある自分たちは垣根が、隔ての壁がもはやなくなったのだということを表しています。「一つの霊によって」これは洗礼のことです。
本日の中心聖句をもう一度見てみましょう。「実に、キリストはわたしたちの平和であり」ます。キリスト、この方が私たちの平和だというのです。キリストは、このようなことをなさいました。「二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し・・・」。「ご自分の肉において」とあります。イエス・キリストはご自分の身をもって、敵意という隔ての壁を取り壊された、というのです。
今日の聖書の言葉をもう一度心に刻みたいと思うのです。「実に、キリストはわたしたちの平和である」のです。キリストはおいでになり、平和の福音を告げ知らせられました。
私たちは、イエス様ご自身を平和の源として、祈りをささげ、行動していきましょう。
2024年5月
5月5日
「神様、心の目を開かせてください」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙1章15~21節
エフェソの信徒への手紙を読み進めております。冒頭の賛美と、使徒の祈りによって、この手紙の趣旨の重要な部分はすでに語り始められているということもできるのです。いったいパウロは、この壮大な賛美の後で、何の祈りを捧げているのでしょうか。
私たちも神を信じる時に、イエス様を「わたしはイエス様を神様と信じています」と告白をします。そして私たちは「聖なる者たち」つまり、神様がキリストにおいて神の子として選んだ他のクリスチャンたち、教会生活を共に送っている方々を、愛の内に覚えます。ここでは、「すべての聖なる者たち」と言っておりますから、一つの教会、勿来教会と言う一つの教会の群れではなくて、すべてのキリスト者を包むような、全ての教会に集う者たちのことが語られている、と言うことが出来ます。
カルヴァンが著作した、「ジュネーブ教会信仰問答」と言う本がありますが、この本は、混乱していた世界の中で、子どもたちをどのようにして教育するかという課題に取り組んだのです。カルヴァンはその時「信仰問答」という、古代のキリスト教会が持っていた教育方法を回復させて、問答形式によって信仰を教えたのです。カルヴァンが第一に掲げたのは「人生の目的は何か?」と言う問いでした。カルヴァンは「人生の目的は何か」という問いに子どもたちを導いて、その答えとして「神を知ること。」と教えたのです。つまり神様を知るということが、最高の幸せなのである、と教えたのです。
私たちは、神様を知っています。しかし深く知っているということが出来るでしょうか。私たちはどこで神様を知ることとなったでしょうか。まず、それぞれの方々が、どこで初めてキリスト教との出会いがあったのか、によると思います。
今日は、茨城キリスト教学園の中学3年生が、礼拝に出席してくれています。茨城キリスト教学園中学生として学校に通っている多くの生徒たちは、茨キリに通って初めてキリスト教を知った、と言う人が多いです。では、教会に通っている私たちはどのような出会いがあったのでしょうか。それぞれの置かれた場において、キリスト教との出会いがあったことと思います。そして礼拝に招かれて、共に主を賛美し祈り、聖書のみ言葉を通して、福音を着たと思うのです。礼拝に通い続けて、そして洗礼へと導かれ、その恵みに授かるのです。洗礼後も、神さまの招きによって、礼拝に招かれ、それぞれの今があるのではないでしょうか。
神を知ることは喜びです。自分自身だけが喜ぶのではなくて、家族も喜ぶのです。周りにいる者たちも共に喜ぶのです。神様をよく知ることは、私たちの大きな希望そして大きな喜びとなるのです。私たちは毎週日曜日、このように礼拝をお捧げしています。そして、共に祈り、賛美し、聖書のみ言葉に与っています。主なる神さまは、私たちの心の目を開かせて下さいました。希望と喜びを胸にして、今週も過ごしてゆきたいと思うのです。
5月12日
「キリストの体なる教会」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙1章21~23節
神様の絶大な力の根拠として、「神はその力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させて、その復活したキリストを天においてご自分の右の座に着かせた」と語る。
神様は、キリストを死者の中から復活させた時に、その復活者キリストを天に引き上げて、ご自分の右の座にお着かせになった。そこに、神様の絶大な力が示されている。
「支配、権威、勢力、主権」と言う4つの言葉が出てきた。これらの言葉は、私たちのこの世で、猛威をふるう力を意味している。私たちの人生に襲いかかる様々な原因を意味している。聖書では、この世と人生の様々なわざわいの根本に悪魔的な「支配・権威・勢力・主権」があると語っている。
「教会はキリストの体」であると記されている。この言葉は、皆さんもよく聞いたことがあるのではないだろうか。教会がキリストの体であるのは、イエス様が弟子たちを愛して、弟子たちをご自分の体と一体のものとみなしたことによるのです。主は教会の群れが迫害をされた時に、その迫害をご自身に対する迫害であると受け取った。それと共に、キリストは全ての者の頭であるが、そのキリストが教会の頭として教会に与えられた。
キリストが「頭」であるのであれば、当然その体である教会は、頭であるキリストに従うのである。キリストが頭であるから、その頭のご意思、ご計画、その知恵、その愛が、教会にゆき渡るのである。
先週の5月9日は、キリストの昇天日だった。イエス様がこの世を離れるということは、心もとない事だろうか。わたしたちは厳しい出来事に直面すると、いかにそこから逃れられるかを模索する。また、なぜ起こってしまったのかと、その意味を問う。
なぜイエス様が共にいて下さるのに、このようなことが起こってしまうのかと、神さまやイエス様を恨んでしまうような、そのような弱さを持っている私たちである。「その時が来た時に、私が語ったということをあなた方に思い出させるためである。私たちを襲う者の正体についてイエス様はあらかじめ話をされていたのである。
イエス様の昇天。わたしたちは、あの弟子たちが、イエス様が天に上げられて、見えなくなるまで空を見上げていたように、イエス様から、心も体も全て離れてしまうのだろうか。
私たちの目には見えなくなってしまったが、イエス様の昇天は、“離れているのにそばにいること”の確約である。イエス様は天に去って行かれた。
しかしイエス様は言われた。「いつも私はあなたと共にいる」と。イエス様はいつも共にいてくださるのである。わたしたちはそのことを毎週の礼拝ごとに知らされている。
5月19日
「聖霊の賜物」 佐野 治牧師
使徒言行録2章1~23節
ペンテコステおめでとうございます。
さて、五旬祭の日、一同が一つの部屋に集まり、祈りをしていた時のことです。突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえたのです。どんな音であったのでしょうか。
勿来教会に来る前は、私は東京に住んでいました。東京と比べてびっくりしたことが一つあります。風です。風が強い日が多いことにびっくりしました。それも中途半端な風ではなくて、家の中にいても、ゴォーッと、ものすごい音が聞こえるくらいの大きな風の音でした。
ペンテコステの日に与えられた「新しい言葉」をたずさえて、使徒たちは続々と、宣教の旅へと出かけてゆきました。その日以来、使徒たちの上に留まりつづける御霊が、新たな命の局面を切り開かせるような、大胆な神の言葉を、喜びの知らせ、福音を彼らに語らせました。ペトロが、ステファノが、パウロが、そのような神の言葉を語りました。行き詰った危機的な状況に希望を与え、新たな命の局面を切り開きました。
皆さんは、聞いたことがないでしょうか。ご自身が感じたことはないでしょうか。苦しい時、悲しい時に、聖書のみ言葉によって救われ、慰められたということを。私は、20代後半の頃、自分が何をやっても、どうしてもうまくいかずに、いつもイライラとして苦しんでいる日々がありました。その時に使っていた日ごとの糧の聖書箇所を開く事によって、慰められて、勇気が与えられたという経験があります。もちろん、私だけの事ではありません。本日お越しの方々の中にも、「わたしもそのような経験をしたことがあります」と言う方はおられると思われます。
ペンテコステの日、使徒たちの上に注がれた霊は、私たちの上にも与えられています。私たちの上には、生ける神様の霊による導きがあります。私たちは神様の霊に導かれ、私たちの時代の危機の中で、神様の言葉を語ります。そうして、神様の栄光を顕します。
2024年5月、本日は皆さんと共に、世界の教会の誕生日、聖霊降臨日ペンテコステ礼拝を共に捧げることが出来ています。日本の中にはたくさんの教会があります。世界を見てみますと、もっと、もっとたくさんの教会があります。そのすべての教会のはじまり、その誕生日を、今日お祝いしています。神様の霊によって、不思議な風の力によって、弟子たちに力が与えられて、世界各地で福音が語られたことによって始まり、救いと希望のメッセージが語られてゆきました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と言われたイエス様です。その集まりが教会となったのです。その集まりが世界各地へと広まり、今の勿来教会が存在するのです。今もこのように、勿来教会がこの地域に建ちづけていること、まさに神様からの祝福です。わたしたちは聖霊によって、希望を与えられているのです。神さまに感謝しましょう。 ペンテコステおめでとうございます。
5月26日
「死から命へ」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙2章1~6節
2章の前半においてまず、キリストを信じる以前の人間の状態を手短に描写しています。そしてキリストによる救いが神様の愛に基づく、恵みの働きであることを明らかにしているのです。私たちを救うのは神の憐れみに他ならないことを書き記しているのです。
著者がここで問題としているのは、そのような人の中での相対的な善悪や上下ではなくて、私たち人間対神さまとの関係であるのです。
私たちは間違いを犯します。軽い間違えから、時には、本当に大変な間違えを犯してしまうことがあります。私自身もたくさんの間違えや過ちを犯してしまった事を思い起こします。
本日の2章1~3節は、過去の過ちの話です。過去の自分を振り返って、思い起こしながら、「あ~。そうだったな」と言っているのです。私たちには、罪の過去があるのです。しかし時計を逆に回すわけにはいきません。過去は過去として、変える訳にはいきません。しかも私たちは「怒りを受けるべきもの」だったと言われています。
先ほど、全ての始まりは「愛」からであると申しました。神さまの憐れみ深い愛によって、私たちが生かされていることを、聖書は「共に」という共通の語を含む「三つの言葉」で語っていました。一つ目は「共に生かす」です。
神様の愛の、もう一つの「共に」は、「キリスト・イエスに会って共に復活させてくださった」です。復活させられるのは通常、終わりの日の事と考えられます。終わりの日に起きる復活は、キリスト・イエスにあって共に生かされる中で、今すでに起きていると語ります。すでに今の事態として、キリストと共に復活の命に与っているというのです。
三つ目の「共に」は、「キリストと共に天の王座に着かせてくださいました。」です。「キリストと共に天の王座に着かせてくださった。」この三つ目の表現は、エフェソの信徒への手紙特有の表現であると言われています。キリストに結ばれて、キリストと共に生かされて「死からいのちへ」移されたことは、他の聖書個所にも記されています。
洗礼がゴルゴタのイエス様の十字架の死に与ると共に、その主の復活の命にあずかることも、何度か耳にしてきたことだと思います。それによって、これまでの過ちや罪から解放があることも語られてきました。
イエス様は、全ての者の頭、世界の王様と言うことが出来ます。その王様であるキリストの勝利に私たちは共に与っているのです。キリストと共に生かされる恵みの中には、キリストの勝利に与り、キリストの王様的な支配に与るということが含まれているのです。「共に天の王座に着かせていただいている」と言われている通りです。謙遜に、しかし確信をもって、このみ言葉を受け入れて、このみ言葉によって、希望をもってゆきたいと思います。
2024年4月
4月7日
「神様をほめたたえること」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙1章1~6節
エフェソの信徒への手紙を、本日からしばらくの間、皆さんと読み進めてゆきたいと思います。この手紙は、異邦人のパウロがエフェソの信徒たちに書いた手紙として読まれてきました。今日では、この手紙の著者が誰か、また誰に宛てて書かれた手紙なのか別の理解がなされています。
1節を見てみますと「エフェソにいる聖なる者たちへ」と記されていますが、この「エフェソにいる」と記載されているのは、比較的後代の写本においてだと言われています。時代は、おそらく1世紀末90年代と思われます。手紙の受け取り手は、信仰を与えられて、2代目か3代目のキリスト者たちと思われます。ですから、同じアジア州の教会に宛てられた手紙の、ガラテアの信徒への手紙の中で問題にしていたユダヤ人キリスト者による、割礼問題や律法へのこだわりによる異なる福音の危険は、出てきません。しかし教会は、別の問題に直面をしていたのです。
3節をお読みします。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。」パウロは、エフェソの信徒への手紙の本文をこのような賛美の言葉から書き始めています。何よりもまず、神様がほめたたえられますように。それがパウロの切なる願いであったのです。そして何にもまして、最初に神様をほめたたえることこそが、キリスト教徒であることの本来の意味であるからこそ、パウロはこのように言っているのです。神様をほめたたえることは、信仰者にとっての義務ではありません。実はこれは、最大の特徴であって、最大の喜びであるのです。
皆さんにお聞きします。神様がなぜ私をキリスト教徒として招いて下さったのでしょうか。私自身も思います。「なぜこんな私が?」と。ですから、この答えはやはり、私たち自身には到底分からないことなのです。これはまさに、神様の選びに他ならないのです。
パウロは「キリストにあって神がお選びになった」と言うことを強調しています。神様の選びとは何でしょうか。それは私たちの救いが、自分自身の力によってではなく、究極的に言うのでしたら、神様が私たちの救いに責任を負って下さっている、と言うことなのです。私たちの救いもまた、新しくされるのです。自分の立派さや優秀さに基づいての事ではなくて、全く神様の恵みによる選びとしか言いようがありません。だからこそ私たちは、自分を誇るのではなくて、神さまに感謝し、神様を誇るのです。
わたしたちは、神様に選ばれて、神の子とされたのです。わたしたちはそのことをいつも心に留めておかなければなりません。神様の大いなる恵みを受けた私たちは何者なのでしょうか。神様が私たちのために何をして下さったのかを、この復活日を迎えた今、今一度心に刻み付けてゆきたいと思うのです。
4月14日
「神の豊かな恵みを受け」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙1章7~10節
先週に引き続き、エフェソへの信徒への手紙1章を読み進めてゆきます。本日は、7節以下をご覧ください。7節以下で語られていることの一つが「救い」です。皆さんにお聞きします。「あなたは救われていますか」さて皆さん少し考えてみてください。どのように答えますか。皆さんが考えて下さった、救いとは何でしょうか。私たちが現実に苦しんでいる悩みや生活の困窮から救われるのでしたら、それは分かる気がします。
「血によって贖われる」とはどういうことでしょうか。それはイエス様がゴルゴタの丘の十字架上で流された血です。その血による贖いのことを言っています。ですのでイエス様の犠牲の血によって私たちの罪が処理されて、罪の効力が破壊され、罪の支配から解放されたと理解することが出来ます。このキリストの血による贖いの救いのことは、よく知っていますよ。と言う人もおられると思いますが、このことは、知っていてもこの恵みは何度でも聞く必要があるのです。何度でも聞くことによって、恵みは豊かに満ち溢れるのです。それがキリストの血による贖いなのです。
神さまの救いの最終的な形とは何でしょうか。10節。新共同訳聖書では「頭であるキリスト」となっております。この「頭である」と言う言葉を、新共同訳聖書では補足をしているのです。原文にはない言葉です。「アナケファライオーシス」というギリシア語が、明らかに「頭」と関連していることから、このような補足がなされたのだと思われます。
私たちはイエス様を主なる神さまと信じています。十字架につけられて、死なれて、復活されたイエス様を「我が主、わが神」と信じています。イエス様は「私の主」であって、同時に多くの人の主「私たちの主」でもあります。イエス様は、“万物の主”であるのです。「万物がキリストのうちに一つにまとめられる」と言うことは、将来そのようになる、と希望しているということだけでなく、「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され」とありますように、ただいつか完成されるだろうと思うことだけではなく「時が満ちる」のは主の到来によってあるのです。イエス様は言われました。「時は満ち、神の国は近づいた」と。イエス様のおられるところに、神の国があるように、時が満ちてイエス様は来られたのです。
しかし、キリストの血による贖い、そして復活の主のご支配によって、万物はすでに一つにされて、主の恵みの支配下に置かれているのです。
「アナケファライオーシス」、キリストにおける全ての民の再統合の信仰は、万物の頭であるイエス様、キリストを信じることによるのです。主は復活の主として、十字架の贖いによって、万物を一つにまとめてくださいました。十字架の主が世界を束ねておられるのです。罪と悪は被造物を相互に引き裂きますが、主の十字架は、引き裂く力に打ち勝ったのです。
4月21日
「神様の栄光」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙1章11~14節
本日の聖書箇所において、私たちを「約束されたものの相続者」と呼んでいます。「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました」と言うのです。
イエス・キリストによって「神の子とされている」と言うのは、私たちに対する救いを告げる表現ともいうことが出来ます。そしてまた、エフェソの信徒への手紙の中の重大なメッセージです。そこには、約束されたものを相続するということが含まれているのです。
「約束されたものを相続する」とは、完成された救いを受け継ぐことであるのです。神の国を受け継ぐことです。私たちの死を受け止める信仰者の気構えとして、ヨブ記の言葉が挙げられます。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」と、このようにヨブ記には記されています。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」まさしく信仰者ヨブの言葉であります。しかし今日のみ言葉は、「約束された者の相続者とされた」と言います。「それは・・・神の栄光をたたえるためです」と言われているのです。
私たちは裸で生まれて、裸で去っていきます。地上の者は確かに何一つ持たず、何も携えていく訳ではありません。しかし神の子として相続者にされて、相続するものを神様から約束されて、与えられているのです。このことを私たちはしっかりと心に留めておくことが大切ではないでしょうか。
将来の相続の確かさは、実は今すでに現在の生活を変えているのです。もうすでに今、現在、将来の相続が保証されているのです。「保証」と言う言葉は、手付金と言う意味合いのある言葉であって、将来の相続は将来になって初めて一から手続きされるものではないですよ、と言うのです。もうすでに今現在、手付金を頂いています。つまり相続すべき財産にすでに一部与って生きているというのです。その聖霊を受けているのです。聖霊の保証によって約束されたものをすでに味わい、経験しているのです。救いの完成、神様の祝福、神の国の予兆を聖霊によってすでに経験し始めているのです。
私たちはそれぞれ、日常生活において、慌ただしい毎日を送っているのではないでしょうか。疲れが出て、ストレスが溜まってしまうことも多いのではないでしょうか。そのような時に、主なる神さまは、私たちを招いてくださいました。「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言ってくださいました。神様の恵みの御業を見て、神様がキリストにおいてしてくださったその恵みを見て、感謝をするように導かれるのです。そしてその時、キリストに会って、十字架と復活の出来事において、一つとされるのです。私たちの冷えてしまった心を燃え立たせて、キリストの信仰に喜びをもってしっかりと立つものとして下さるのです。
4月28日
「互いに励まし合いましょう」 佐野 治牧師
ヘブライ人への手紙10章21~25節
19節までのところで、大祭司イエス・キリストのことが語られてきました。そして21節では、私たちはイエス様の血によって、神の御前に出て、聖所に入る特権・権能を持っている、と語るのです。
22節以下では、3つの勧めが記されているのです。一つ目は、「新しい道が開かれているのだから、神に真心から近づくことです。」「近づく」と言う言葉を礼拝用語としてとらえますと、「神に近づき礼拝しよう」と言い換えることが出来ます。私たちは、赤ちゃんがお母さんに近づくように、大祭司イエスを信じて信頼しきって、何の憂いもなく、偽りや飾りのないありのままの心で、喜びをもって神様に近づくのです。
二つ目を見てみましょう。「公に言いあらわした希望を揺るがぬようしっかり保ち」とありますが、他の訳を見てみますと「しっかりと希望を告白し続け」となっています。「告白」とは、教会が公に言いあらわして、皆でそのことを何偽りなく語ることができる教会の言葉です。「約束してくださった方は真実な方ですから」と書かれていますが、私たちは希望を抱き続けることが出来る根拠はここにあるのです。告白の内容、それは神様の約束に基づく希望であるのです。
三つ目を見てみますと、新共同訳聖書には、「互いに愛と善行に励むように心掛けましょう」と書かれていますが、新改訳聖書2017では「愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。」と書かれておりました。ここの表現の強調点としては、まずは、互いに注意を払いあうことではないでしょうか。また、この注意を払うというこの動詞は、聖書の中で2か所しか出てこないのです。そのもう一つもこのヘブライ人への手紙に記されています。3章1節です。注意を払うということは、考えるということです。
特に教会の中では「互いに重荷を負い合う」ということが強調されています。ガラテヤ6章2節には、「互いの重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」とあります。もしキリストによって救われ、あなたの中にキリストの愛が満ち溢れているなら、必ず互いに重荷を負い合うという具体的な形で現れてきます。
特定の人にだけ重荷を負わせ、犠牲を負わせる等ということがあってはなりません。もちろん、皆が同じように愛を実行できるということは難しい事ではありますが、自分のできる範囲で、心を配るということが求められているのです。
コロナ禍の2年間程、礼拝は継続して行いましたが、集会等を極力控えざるを得ませんでした。皆で集まり、祈りや賛美の時を献げることを 、決して止めてはなりません。クリスチャンが一人で信仰生活をしていくと、どうしても独りよがりになりになってしまいがちです。交わりが必要です。その中で最も大切な交わりは教会の交わりであるのです。
2024年3月
3月3日
「受難の予告」 佐野 治牧師
ヨハネによる福音書6章60~71節
今年に入り、ヨハネによる福音書を何度か説教箇所として与えられていますが、今回のこの6章は五千人の給食の奇跡で始まっています。5つのパン、二匹の魚の話でした。目に見えるパンを与えるという時、人々はイエス様の周りに数え切れないほど、集まってきました。
しかしイエス様が御自分が誰であるかということを、明らかにされるにつれて、人々の態度は変化をしていったのです。まず、イエス様のもとから去っていく人もいたのです。
この弟子たちと言うのは、イエス様を信じていて、洗礼を受けていた人たちでした。「私はイエス様を神様であると信じます。」私たちは、洗礼を受ける時、信仰の告白をします。
私たちも、躓きます。色々な場面において、躓くのです。イエス様を信じることが出来なくなることがあります。しかしそれでも良いのです。良いのですという言い方は少しおかしいかもしれませんが、なぜそれでも良いというのかと言いますと、聖書を通して、イエス様は私たちのことを全てご存じであると言ってくださっています。そんな姿の私たちをも愛してくださっている。それがイエス様の見返りを求めない愛の姿なのです。
なぜこのようなことになってしまったのでしょう。それは、イエス様が与えるものと、人々が求めるものが違っていたからなのです。目に見えるパンが与えられる時、人々はイエス様について来ました。ついて来るどころか、王にしようとさえしたのです。しかし、イエス様が与えるものが永遠の命であり復活の命であることが知らされると、人々はイエス様につまずき始めたのです。
「イエス様に祈ったって何にもならないではないか。」「全然だめじゃないか。」ということになって、心はイエス様から離れてしまうのです。そういうことが起こってくるのです。
そこに一つの人間の思いと、イエス様の思いの違いが生じてくることがあるのです。まず、私たちの願い、それがすべてではない、と言うことです。イエス様はイエス様の視点で、それ以上のものを与えてくださる、と言うことです。つまり、私たちが良いと思う視点と、イエス様が良いと思われる視点にずれが生じることがあるということです。
神の子であるイエス様は、これさえあればどんな困難も乗り切れる、力ある希望、生きる力、まことの命を与えてくださるのです。それが永遠の命であり、復活の命なのです。
私たちも「イエス様を信じます」と告白します。「イエス様と共に歩みます。」と心に決めて歩み出します。しかし、しばしばその歩みは破れるのです。その破れにイエス様が立ってくださるのです。
十字架にかかって立って下さるのです。ですから私たちは、自らの弱さを言い訳にしないで、力の限り「主よ、あなたと共に歩んでいきます。」と言い、イエス様の愛の内に、主と共に歩んでまいりたいと願うのです。
3月10日
「するままにしておきなさい」 佐野 治牧師
ヨハネによる福音書12章1~8節
本日のテキストによりますと、場所はベタニアで、状況は大変厳しい時であると想定することが出来ます。直前の11章の最後の言葉を見てみますと、当時の権威者たちから、イエス様の居場所が分かり次第すぐに届け出るようにとの命令が出ておりました。イエス様はこのような危険を避けて、しばらくの間荒れ野に近いエフライムという町に行っておられた、と11章には書かれています。イエス様は、過ぎ越しの祭りが近づいて最後の日をエルサレムで過ごすためにまた戻って来られました。逮捕状が出るきっかけとなった、ラザロを墓から呼び出すという出来事の起こった、ベタニアに戻って来られたのです。
皆が夕食をとっていたその時のことです。マリアがナルドの香油をイエス様の足に塗り、そして自分の髪でイエス様の足をぬぐったのです。たちまち家の中は香油の香りでいっぱいになりました。この当時のユダヤの食事の仕方は、テーブルがあって椅子に座ってというのではありません。食事は床に並べられ、人々は横になって、左肘をついて身体を支え、右手で食べていました。そのような食べ方でした。ですから、横になったイエス様の足に、マリアはナルドの香油を塗って自分の髪でぬぐったのです。この香油は北インドで作られる非常に高価なものでありました。1リトラはとはどのぐらいの量でしょうか。1リトラは、約300グラムと言われています。約300グラムのナルドの香油は、300デナリオンの価値があったようです。300デナリオンです。1デナリオンが労働者の一日の賃金ですから、約一年分の収入と考えて良いような値段です。皆さんは、このマリアのとった行為をどう見るでしょうか。なんてもったいないことをと思ってしまうでしょうか。4~5節には「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。『なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。』」とあります。何故こんな使い方をするのか。このユダが語ることは、信仰のない人にも分かります。
イエス様はここで、ユダの言っていることを否定はされませんでした。8節で大切なことは、マリアのしたことは、イエス様の葬りのためであったということです。
この7節は、もう一つの読み方をすることが出来ます。「マリアよ。それをよしなさい。あなたが本当に私の死体にこの香油を注がなければならない日がすぐに来る。それまで待ちなさい」そう言われたと読むこともできる言葉であるのです。
イエス様は私のために十字架にお架かりになられました。命まで捨ててくださいました。そのイエス様のために何が出来るのでしょう。マリアの出した結論、答えは、自分の持っている全財産と言っても良い、ナルドの香油をイエス様にささげることだったのです。
受難節、イエス様のご受難を覚え、互いの痛み苦しみを覚えてゆきたいです。私たちがこれからも互いに祈りに覚え合い、悲しみも喜びも共にしてゆくことができますように。
3月17日
「光を信じなさい」 佐野 治牧師
ヨハネによる福音書12章20~36節
「はっきり言っておく。一粒の麦は…。」(ヨハネ12:24)一粒の種が大地に蒔かれて、いったん姿を消す。これはイエス様の死を意味しています。しかししばらくすると、発芽をします。そうしますと予想を上回る大収穫をもたらします。これは、種の生命力と自然のはぐくみを意味しています。この死から命への転換こそ、イエス様の十字架と復活を象徴していると言えるのです。
神様が恵み深いみ力を示された信仰の出来事なのです。十字架の死により、イエス様を取り去られた衝撃と悲しみ、そこから「主は蘇られた」との確信、燃え上がる喜びへと変えられていくこの突破口を、当時の弟子たちはどのようにして得たのでしょうか。それは一言でいえば、今も生きておられる主ご自身の働き、それを認めて、それに気づくことなのです。十字架につけられたあと、今もなお生きておられるイエス様は姿を変えて近づいてこられる。このことに、私たちは気づかなければなりません。
さて、もう一か所注目をしたい節があります。それは35節です。「イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。」イエス様は人生を旅路に例えておられます。それもあまりぐずぐずしてはいられない。と言いますのは、時は容赦なく過ぎていくものです。過ぎ去ったら、もう二度と繰り返しのきかないものだからです。「光があるうちに」と言う言葉は、非常に大切な重みのある言葉なのです。日暮れの時と言うのは、終わりの時が刻一刻と近づいているのです。「暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。」自分がどこへ行くのか分からない。これは非常に危険なことです。暗闇、これはヨハネではとても意味深い言葉です。
神さまは、今もなお、私たちと共にいてくださいます。そのことは私たちもよくわかっていることと思います。ではどこに?私たちの側に。側とはどこですか。私たちの心の中にいつもいてくださるイエス様です。英会話教室では、学びが終わってから、おやつタイムがあります。その中の10分ぐらいをもらい、毎回聖書のお話をしています。その時にもお話をしたことがあるのですが、「くつやのマルチン」という、トルストイの絵本を読むことがあります。「マルチンマルチン、明日わたしはあなたのところに行くよ。」と天から声が聞こえます。マルチンは喜び、イエス様の来るのを待っています。しかし待ってもやってきません。来たのは、寒い中掃除をしていたおじいさん。赤ん坊を抱いているのに、薄着をしていた母親。リンゴを泥棒してしまった少年。リンゴを取られて怒っている婦人・・・。姿を変えて、私たちの共にいてくださる聖霊なる神様。あなたの側に、今もそしてこれからも、どんな姿で共にいてくださるかは分かりません。しかし、確信はただ一つです。神様は今もなお、そしてこれからもとこしえに私たちと共にいてくださるということです。
3月24日
「ペトロの打ち消し」 佐野 治牧師
ヨハネによる福音書18章15~27節
受難週の初めの日。本日与えられました聖書箇所の前の節では、イエス様が、ついに逮捕をされるという出来事が書かれていました。逃げることは出来たのですが、逃げずに断固として十字架の道に踏み留まったキリストの威厳に満ちた姿を見ることが出来たのです。イエス様は「わたしである」と名乗り出ました。そして他の弟子たちは逃がしてやって欲しいと言い、進んで捕まったのです。しかしその後の弟子たちはどうなったのでしょうか。
他の弟子は分かりませせんが、ペトロはイエス様が逮捕されて連行された、大祭司の中庭に忍び込んだと書かれています。そもそもペトロは、イエス様が逮捕される前に、このようなことを言っていました。「あなたのためなら、命を捨てます。」と。
ペトロは無謀にも驚くべき大胆さを持って大祭司の中庭に潜入しました。おそらくイエス様の声が聞こえて、イエス様が見えるところの近くに行きたかったのだと思います。
19節以下には、大祭司によるイエス様への尋問が記されています。大祭司アンナスはまず、イエス様に尋問をします。その答えが気に入らなかったのでしょう。下役がイエス様を平手で打ったのです。尋問に対する答えに気に入らないというだけの理由で、暴行が加えられていたのです。イエス様のご受難の時は、もうすでに始まっていたのです。
25節以下では、ペトロはまた同じことを聞かれて、2回目、3回目とイエス様を否定します。他の聖書箇所には、3回目の否定には呪いの言葉すら口にしたとも書かれています。
しかしなぜわざわざこのペトロの失敗をどの福音書も書いているのでしょうか。ペトロがこんなにダメな人間なのですよ、と言うことを言いたかったのでしょうか。そうではないようです。ここには深い意味があるのです。これは単なる失敗談ではないのです。むしろ信仰の告白だと、受け取ることが出来るのではないでしょうか。
聖書を読み進めておりますと、ペトロのように、「あれ?これって失敗談?」と思うような信仰の告白はいくつか出てきます。例えば、モーセを見てみますと、モーセは、同胞のヘブライ人を助けるために、エジプト人を打ち殺してしまいました。それが発覚すると動転して荒れ野に逃げ延びて、40年もの間そこで羊飼いをしていたのです。また、ペトロと一緒にローマで殉教した使徒であるパウロも、最初は教会を迫害してキリストを信じる者たちを次々と迫害し殺していた張本人でした。そのような出来事が少しも隠さず、ありのまま書かれているのです。ここに聖書の特徴があるということが出来ます。
モーセ・ペトロ・パウロも失敗をしました。私たちも失敗をします。失敗をしない人などはいません。聖書の人物たちの全ての失敗や、私たちが繰り返して犯す失敗が、この十字架の下で福音に変えられるのです。ペトロの失敗物語は福音に変えられました。そこには、未来との約束が満ちているからです。
3月31日
「なぜ、泣いているのか」 佐野 治牧師
ヨハネによる福音書20章1~18節
ユダヤ人たちが、イエス様を処刑するよう求めた一番の理由は、イエス様が「自分はユダヤ人の王である」と言っていることが理由でした。その理由から死刑を望んだのです。そして「イエスを殺せ、イエスを十字架につけろ。」と皆が大声で叫んだのです。ピラトは、イエス様の体を鞭で打つようにと命じたのです。
世界で最初のイースターの朝、誰もイエス様の復活などは信じていませんでした。イエス様は生前に何度も「わたしは十字架につけられて処刑される。そして三日後に蘇る」と言うことを様々な言葉で弟子たちに伝えてきました。しかし誰もそのことを理解しませんでした。神の子・救い主メシアが、十字架で処刑されるということ自体があり得ないことであって、その先に復活があることなど人間の理解を超えたストーリーだったのです。
三日目の朝早くのことです。イエス様の葬られているお墓に向かったマグダラのマリアです。遠くからお墓の入り口を見てみますと、墓石の大きな石がずらされていて、中が丸見えです。中に寝かせてあった、イエス様のご遺体がなくなっていたのです。
イエス様の一番近くで、この日に起こるべき「復活」を教えられてきたのです。ですがそのような、死んで復活をするということが、本当に起こる訳がないと思っていた者たちがほとんどでした。これが現実の人間の姿ではないでしょうか。では私たちどうでしょうか。イースターの朝に教会に行くあなたは「イエス様が復活された!ハレルヤ!」と確信を持って礼拝に出席しているでしょうか。
最初のイースターの日マリアは度重なる不安と混乱の中にいました。マリアは、孤独と絶望の中に取り残されてしまったのです。ですからただ泣くことしかできませんでした。その時です。その姿をのぞき込む二人の天使の姿がありました。マリアのその悲しむ姿を見て聞かれました。「どうしたのですか」するとマリアは、私のイエス様のご遺体が誰かに盗まれてしまったのです。
しかしイエス様は、「マリア」と声を掛けました。するとその時にどのようなことが起こったのでしょうか。目が開けたのです。マリアは、すかさずに「ラボニ」ヘブライ語で先生と答えたのです。マリアは復活のいのちに生かされて変わったのです。意気消沈していた弟子たちは復活のイエス様に出会って、新しい力を得るのです。本日の旧約聖書イザヤ書55章11節には「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしの元に戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と神様が言われたように、神様の言葉であるイエス様は、復活する事によって、マリアを変えて、弟子たちに力を与えて、人間を救われたのです。復活は理念的なことではなくて、イエス様の名によっていのちを与える力であるのです。その力は私たちをどのように変えて下さるのでしょう。
2024年2月
2月4日
「癒されるイエス様」 佐野 治牧師
ヨハネによる福音書5章2~18節
ベトサイダのほとりで病んで身を横たえている人がおりました。そして祭りの音に耳を傾けて、「あ~、今日は祭りの日なんだ。私も元気な時には神の宮に行っていたもんだな」と思いおこしていた人がおりました。
17節でイエス様はこのように言われています。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」と。安息日は、働かない日のことを言います。明らかな根拠があるのです。この日は神様が働かれなかったからです。私たちも働かないのだと人々は信じていたのです。
さて、祭りが行われている時に、イエス様が来られました。ベトサイダと呼ばれる池、その池の周りに横たわる人たちのことを心にかけていた人が、イエス様以外にいたでしょうか。イエス様は、祭りの賑わいの中であっても、じっとその池の周りに目を留められたのです。イエス様はこの人がもう長い間病気であることを すぐにお知りになったのです。実に38年間も病気で苦しんでいたのです。この人が何歳であったかはわかりませんが、38年間といえば、どうでしょうか。人生の大半が病におかされていたということになります。
イエス様は、この人の本当の求めを、本当の願いを見抜かれて、この人に対して命じられたのです。8節「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と。なぜイエス様はこのようなことを言ったのでしょう。38年間も歩くことができなかった人を目の前にして言われたのです。イエス様の言葉によって死んでいた者がよみがえるということと同じく、復活の出来事、新しい再創造の出来事が起こっているのです。このことがお出来になるのは神様のみです。イエス様は神様であることを示されているのです。
そして、床を担ぎ家に帰ろうとしたのかもしれません。しかしその途端に、祭りに来ていたユダヤ人たちが集まってきたのです。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない」という人が出てきました。ファリサイ派の人でしょうか。それとも律法学者でしょうか。安息日の当日に、どうどうと安息日規定を破って床を担いでいくものがいる、これは黙って見過ごすわけにはいきません。そう思ったのでしょう。
ユダヤ人は怒りました。ユダヤ人たちは「イエスを迫害し始めた」と聖書に書かれています。なぜそこまで怒ることなのでしょうか。二つの理由を挙げてみたいと思います。一つ目は、イエス様がこの人を癒されて、床を担いで歩かせたのが安息日であったからです。二つ目は、彼らが、イエス様になぜ安息日に癒すのか、と質問をした時に、イエス様が言われた言葉は17節「私の父は今も働いておられる。だから、私も働くのだ」でした。ここでのイエス様の言葉は、ご自身を神様と等しい者としています。これこそが、ユダヤ人たちにとって、決して許すことができないことであったのです。
2月11日
「五つのパンと二匹の魚」 佐野 治牧師
ヨハネによる福音書6章1~15節
新約聖書の中には、イエス様が為された不思議な奇跡がいくつも記されております。イエス様の為されたこれらの奇跡を私たちはどのように理解すべきなのでしょうか。
聖書の中ではこれらを「奇跡」とは呼んでおらず、「しるし」と呼んでいます。6章2節「大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。」、6章14節「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。」とあるとおりです。この「しるし」は、イエス様が天地を造られた、ただ独りの神様の御子であるという「しるし」なのです。 イエス様が為された他の奇跡物語を見てみますと、弟子たちはいつもイエス様のそばで見ているだけでしたが、今回の奇跡においては、弟子たちは見ているだけではありませんでした。自分がパンと魚を配るという役割が与えられていました。パンと魚が自分の手元で増えていくのです。配っても配っても無くならない、弟子たちはこの奇跡の当事者、体験者だったのです。これは、強烈な印象を弟子たちに与えたに違いありません。
11節。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて」というこの言葉は、どこかで聞いたことがある言葉ではないでしょうか。毎月行っている聖餐式の時の言葉です。
この時イエス様が人々に与えたパンは、単に食べ物としてのパンではなく、イエス様が与える永遠の命、イエス様御自身をも指し示しているということなのです。そして、イエス様御自身を食べ、イエス様の命に与るとは、まさに私たちが与っている、キリストの教会が二千年もの間、与り続けてきた信仰による食卓である「聖餐」であるのです。五千人の給食の奇跡は、更に最後の晩餐そして聖餐へと繋がっていく、ということが言えるのです。この繋がりこそが神様の救いの御業であるのです。
弟子たちは五千人の給食の時、イエス様が不思議に増やしてくださるパンと魚、配っても配っても無くなることのないパンと魚を配りました。この不思議なことは、弟子たちが行ったことでしょうか。弟子たちに不思議な力が備わったから行われたのでしょうか。そうではありません。弟子たちは、イエス様が与えてくださったものを、ただ配ったに過ぎないのです。それは、今も変わることはありません。イエス様の弟子たちの集いである教会は、私達自らの中に、何か不思議な力を持っているのではありません。ただイエス様が自らの命を、教会を通して人々に与えてくださるのです。それが主の日のたびごとに与えられる御言葉であり、聖餐であるのです。一人でも多くの人がこのキリストの命に与ることができるように、そしてそのことを通して、キリストの命を配ることが出来るようにと、私たちはイエス様に命じられています。このキリストの恵みの命は、配っても配っても無くなることはありません。配れば配るほど、イエス様の不思議さを味わい知ることとなるのです。
2月18日
「荒れ野の誘惑」 佐野 治牧師
マタイによる福音書4章1~11節
本日の新約聖書の御言葉は、マタイによる福音書4章です。イエス様が悪魔から誘惑を受けたことが記されております。このイエス様が誘惑を受けたというところから、いったい誘惑とはどういうものであるのかについて、見てまいりたいと思います。ここで示されていることは、「誘惑」や「試練」はあるものなのだ、ということです。私たちは、様々な誘惑や試練などに、遭うことなくして、洗礼を受けられたのでしょうか。神の子として順風満帆に神の国に向かって歩みを進めることが出来たでしょうか。多くの人はそうではないと思います。私も違います。誘惑や試練は、必ずあります。何の苦労もなくして、今までの人生を生きてきたのでしょうか。そうではありません。誰にだって苦労はあるのです。悲しいことはあるのです。辛く苦しい時もあるのです。「神様が私を愛しているなんて本当なのか。」そのように思ってしまう、「私」の姿があったのです。
もう一つ考えてみます。誘惑・試練は、どんな時に起こることが多いのでしょうか。それは、自分が出来る、能力がある、と思い高ぶっているところにこそ、起こるのです。悪魔はイエス様に「これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と言いました。それは、イエス様が石をパンに変えることがお出来なることを知っているからこそ、誘惑をしたのです。私たちに向かって、悪魔はそのようなことは言いません。私たちにはそのような力がないからです。「この石をパンに変えてみろ」なんかと言ったところで、出来ないことを知っているのですから、何の誘惑にもなりません。自分が出来ること、自信があること、能力があると思っていることに対して、私たちの中でどのような事が起こってくるでしょうか。そういう事柄については、人に自慢したいですし、時には自信過剰となってくるのです。そしてついには「あ、これは自分の力で全部できる。」となるのです。すると「神様なんていらない。いなくても大丈夫。うまくいっているし、自分の力だけでやっていける。」そのように悪魔が、私たちの心にささやいてくるのです。
では、イエス様はどうしてこれが悪魔による誘惑だと分かったのでしょう。それには悪魔の誘惑の特徴があったからです。神の子であるという自分が一番大切にしているものを、誰に頼ることなく、自分の力で守らせようとしている、と言うことです。つまり神の子であることを自分自身で証しさせようとしているのです。ここに、悪魔の賢さというか、誘惑の鋭さがあると言えます。イエス様が神の子であることを明らかにし、使命を全うするのはどこでしょうか。それは十字架上です。しかし、この時悪魔は、十字架上ではなくて、石をパンにする、そのことで証しせよと誘惑したのです。
私たちは弱い人間です。しかしイエス様は強いです。悪魔よりも強い存在です。必ず悪魔の誘惑から私たちを守って下さいます。ですから私たちは、常に祈り求めて行きましょう。
2月25日
「光の子として」 佐野 治牧師
エフェソの信徒への手紙5章6~14節
聖書では、「あなた方は以前には暗闇でした」と語っています。しかし「今は主に結ばれて、光となっています」と言うのです。聖書は神の似姿として創造されて本来、罪のなかった人間が、誘惑によって罪に堕ち、自分の中に闇を抱えて、闇そのものになる、そういう人間の現実を見ています。しかしその人間が「今は主に結ばれて、光となっている」と言われて、「光の子として歩みなさい」と勧められます。
聖書には大きく分けて二つのことを避けるべきと書かれています。一つ目は性の乱れです。3-4節をみてみますと「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なこと」と続きます。
もう一つ避けるべきこととして、偶像礼拝です。このエフェソ5章では、性の乱れを避けなさいと書いていますが、それが究極的に何に結び付いていくかと考えますと、偶像礼拝につながるのです。5節には、すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。と言っているのです。では私たちは、このような性の乱れ、偶像礼拝を捨てて、何を求めるべきなのでしょうか。エクレシアは何を求めるべきなのでしょうか。それを一言でいうと、「光の子どもらしく歩む」と言うことです。「光の子どもらしく歩む」これですとなんだか抽象的過ぎて、なにか具体的には分かりません。9節以降には具体的に「光の子として歩む」とはどういうことであるのか、と言うことが書かれています。
教会やクリスチャンの間では、「議論するのはやめよう、反論するのはやめよう。反対するのはやめよう。輪を乱すのは、神様が求めておられることではないよ。」と言うことが言われることがあります。しかし聖書には、暗闇の業が行われているのであれば、それをむしろ明るみに出しなさい、と言っておられます。論理的に追求して明らかにしなさい。と書かれています。教会の中でも、様々な意見を持たれている人はいます。教会に来られている方々は、皆さん生まれも育ちも年齢も違いますので、意見が違うのは当たり前です。相手を誹謗中傷することはもちろんよくないことですが、相手の意見を尊重した上で、私はこのような意見を持っています。と言うことを伝えること、それは大切ではないでしょうか。
レント、受難節の期間を私たちは過ごしています。そしてその時、私たちは復活の主を見上げているのです。復活のキリストが私たちを照らされるのです。キリストの光に照らされれば、全ては明らかにされます。私たち自身の暗闇の業も明るみに出されます。「むしろ、それを明るみに出しなさい」と聖書が言っている通りです。
2024年1月
1月7日
「世の罪を取り除く神の小羊」 佐野 治牧師
ヨハネによる福音書1章29~34節
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」これはイエス様の先駆者であるヨルダンの荒れ野で悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた洗礼者ヨハネの言葉です。ヨハネは自分のもとへと来られたイエス様を見て、このように証言したのです。この洗礼者ヨハネの使命は何であったのでしょうか。それこそが、「証し」をすることであったのです。
ヨハネの使命は、証をすることです。ヨハネの証には、消極的な面と、積極的な面の二
面性があると言われています。例えば、19節「私はメシアではない。」これはある意味消極的な自己否定な言葉です。キリストの前にして、自分を打ち消したのです。ヨハネのそばに群衆が群がっていてイエス様を証ししたのです。人は時として、自分の功績を、人の功績までをも横取りしてまでも誇ろうとすることがあります。それなのに、ヨハネは否定しました。これがヨハネの証であるのです。
自分の弟子たちが一緒にいるところで、イエス様が歩いておられるのを目にして言いま
した。「見よ、神の小羊だ」その弟子はヨハネがそのように言ったのを聞いて、イエス様に従ったのです。ケファの次には、フィリポが従いフィリポはナタナエルを導きました。このような連鎖反応が続いたのです。このように次々と証人たちや弟子たちが、バプテスマのヨハネの一言から集まってきたのです。
勿来教会にも、教会の門を叩かれる方がおられます。皆さんも、出身教会は異なるにしても、それぞれの教会の門を叩いて、教会と出会うこととなりました。そして神様と出会ったのです。これは偶然なのでしょうか。燭火賛美礼拝において、奇跡のお話をいたしました。この出会いは、偶然ではないのです。出会いは選びであり、神さまの選びの奇跡であるのです。人の思いをはるかに超えた、神様のご計画に他ならないのです。
洗礼者ヨハネが聖霊なる神様によって、イエス様がメシアであると示されたのは、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を授けられた時でした。しかし皆さん、この場面をよく考えてみますと、不思議だな、とは思いませんか。時々、礼拝に出席していても、「洗礼を受けなくても信じていれば良いでしょ?」また、「わたしは、聖書を読んで毎日祈っているから、それで良いでしょ。毎日祈っているし、聖書も読んでいるなんて、素晴らしいでしょ。」と言ってくる人もいます。そのような人達は、本当にそれでよいのでしょうか。本当に聖書をきちんと読まれているのでしょうか。イエス様ご自身が洗礼を受けて、あなたと同じ場所に立つと言って 下さっているのに、「私はそこに立つ必要はないです」と言っているのと同じではないでしょうか。イエス様は洗礼を受けることによって、私たちと同じ所に立とうとして下さっているのです。
1月14日
「最初の弟子たち」 佐野 治牧師
ヨハネによる福音書1章35~51節
今朝、私たちに与えられました新約聖書のみ言葉は、ヨハネによる福音書1章のみ言葉です。ここにはイエス様の最初の弟子たちの様子が記されています。
洗礼者ヨハネは、イエス様の証し人、証し人の中の証し人ともいうべき典型的な証人像であるということが出来ます。ヨハネは、旧約の預言者を継承する証人と言われていますが、ヨハネの弟子たちの中からイエス様の最初の弟子たちが選ばれたということは、旧約聖書の預言者の伝承を受け継ぐ人たちであったことを示しているということが出来ます。
私は30代で、日本聖書神学校へ通い始めました。神学校入学の際に、召命感を問われます。学んでいく中で、入学前に思っていた神学に対する思いが、日に日に崩されていくという体験をします。その後新たなものが、4年間の学びや信仰生活、人との出会いによって変えられていくのです。授業の中で、とことん否定をされるという体験をします。それに耐えることが出来ない人は、残念ながら、神学校を退学してしまう人もおりました。
35節以下を見てみますと、イエス様の言葉が出てまいりました。それは「何を求めているのか」と言う言葉でした。それに対して彼らが聞いたことは、 「どこに泊まっておられるのですか」と言うことでした。一緒に宿泊をしてじっくりと話し合いたいと思っていたから、このようなことを聞いたのではないかと思います。
この時にまずイエス様の弟子となったアンデレは、原始キリスト教会でやがて重要な役割を果たすようになるペトロをイエス様のところへと連れて行きます。アンデレの姿はこれ以外には、福音書の中では出てきません。その点では、頻繁に登場するペトロとは対照的ですが、そのペトロをイエス様のところに連れて行ったのはアンデレだったということを思い起こしますと、そこに彼の決定的な働きがなされていたのだということが言えるのです。
人に伝道するということは、本当に難しい事と思います。自分一人の力では、いくら牧師であったとしても、難しいです。しかし、私たちは主と共に歩むものとして、洗礼を受けて、教会生活を送っているのです。やはりどなたかを主の道へと導く時に大切なことは、まず神さまに全てをお委ねして、祈り求めることが大切です。そして神さまの御声を聞いて、丁寧に証しをしていくこと、それが証人としての大切な姿勢ではないか、と感じるのです。神はその御業を成し遂げるために、独り子であるイエス様を私たちの内にお遣わし下さいました。主は、私たち人間をその弟子としてお召しになることによって、その御業の歴史の中で展開なさっています。預言者の伝統を受け継いだ証人としての弟子たちの姿を、私たちは今朝はっきりと示されたのです。「見よ、神の子羊だ」とわたしたちの前に示されているあの方に、私たちもまた私たちの生涯をお委ねしていこうではありませんか。手ごたえのある、充実した人生がそこに生まれてくるに違いありません。
1月21日
「栄光を現わされるイエス様」 佐野 治牧師
ヨハネによる福音書2章1~11節
11節「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。」この栄光と言う言葉、聖書の中に多くできます。栄光と言う言葉は、キリスト者にとって、イエス様の体である教会にとっても、とても大切な言葉です。神様の栄光と言うのは、私たちの目指す究極の地点と言うことが出来ます。
では、本日の新約聖書の場面には、どのような奇跡のしるしを見ることが出来たのでしょうか。結婚式の披露宴がピンチの状態です。人生の第二の門出と言う時に、何たる状態でしょうか。これは人間の苦境の状態です。物質は豊かになったように思えますが、人の心は、病み、痛み、傷ついています。苦境に落ち込んだ時の叫び、八方塞がりの人間のうめきでないのであれば、これは何でしょうか。母マリアは人々の苦境を代表して、イエス様にお願いをするのです。「ぶどう酒がなくなりました」と。
イエス様が言った「私の時」と言う言葉がありましたが、「私の時」とはいつのことを言っているのでしょうか。イエス様が捕らえられる時のことです。十字架上で栄光の死を遂げて父なる神様の元に行くときのことを言っています。
父なる神様から律法をゆだねられたモーセの最初の奇跡は、旧約聖書においてどのように書かれていたでしょうか。それはナイル川の水を血に変える奇跡でした。それに対して、父なる神様から福音を委ねられたイエス様の最初の奇跡は、今回の水がめの中の水をぶどう酒に変えることであったのです。
「弟子たちは彼を信じた」とあります。ある人たちがイエス様の弟子となってからイエス様を一層深く信じたことを意味している言葉です。必ずしも、イエス様を深く信じてからイエス様の弟子になる必要はなくて、イエス様の弟子となることによって、イエス様に従い、イエス様のしるしを確認してから、成長しつつ一層深い信仰を持つこともありうるのです。
私たちもそうですね。「神様を信じます」という、信仰を告白する儀式、洗礼式を行う時に、その前に準備会を行います。その洗礼準備会を通して、全てのことが理解できて、イエス様の事や神様のことが 全て分かる、理解できる等と言うことはありません。イエス様を知ることは、洗礼を受けた後、礼拝出席を通して、賛美・祈りそしてメッセージを通して、教会での奉仕を通して教えられて、信仰が成長していくのです。
弟子たちはこの奇跡を、イエス様が誰であるかの「しるし」として見て、イエス様を信じました。イエス様の御業、神様の御業はいつも私たちを取り囲んでいます。私がこの人と出会った、そして結婚をした…それらはみんな、神様の御手の中にあることなのです。それらはみんな神様の御手から来たことを、私たちは聖書を通して知らされるのです。
1月28日
「真理とは」 佐野 治牧師
ヨハネによる福音書8章21~36節
イエス様は、人々に自分が何者であるのかを、あの手この手をつくして話をしたのです。しかし話はストレートには伝わりませんでした。イエス様の本当の思いを受け止められる人はいませんでした。
21節「だが、あなたたちは自分の罪の内に死ぬことになる。」、24節「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。…あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」と「死」と言う言葉を3度繰り返されていることに注目をしたいと思います。3度繰り返すということは聖書の中でも重要な意味を持っていることを示す数と言われています。イエス様がご自身の「十字架の死」について予告なさったと言う記事は、マルコによる福音書やその他の福音書にも出てきますが、この箇所では、ごく短い間にイエス様が「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」ということを3度も、警告を発せられているということは、余程のことであろうと思われます。
31節以下を見てみます。私たちに与えられている大きな恵みの一つは「自由」です。34節には「はっきり言っておく。罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である。」とイエス様は言われました。罪からの自由というのは、罪の奴隷の状態からの自由ということです。このようなイエス様の言葉を聞くと、ドキッとしないでしょうか。私は罪を犯していません。」と言い切れる人はいるでしょうか。いくらキリスト者であっても、全く罪を犯していない人はいないのです。でしたら、キリスト者もまた罪の奴隷なのでしょうか。そうではありません。ここで言われている「罪を犯す者」とは「罪を犯し続ける者」のことです。神様の御前において私たちは、これをしたら怒られる、これをしたら家を出される、と心配している奴隷ではなく、ここは私の家だと安心して自由に過ごすことのできる「子ども」のような存在なのです。
私たちが洗礼を受ける時に、「私は神様を信じます。私はイエス様が神様であることを信じます。」と言い、信仰を告白し、そして教会生活を通して、祈り、賛美し、み言葉を受け取り、奉仕を通して信仰を深めていくのです。私たちは洗礼を受けた者が全て、生涯信仰の生活を全うするとは限らないということを知っています。洗礼を受けて、1,2年の間は信仰生活に燃えている方も多いのです。問題はその後です。必ず信仰生活のマンネリ化ということが起きるのです。これは誰にでも必ず来るのです。私もありました。様々な理由をつけて、教会から離れてしまった期間がありました。このような信仰のマンネリ化をそのままにしておきますと、いつの間にか説教を聞いていても眠いだけ。礼拝に来てもつまらない。献金するのはもったいない。そのようになっていってしまうのです。イエス様の言葉「わたしの言葉にとどまるならば」と言われたことを心に刻んでいきたいと思うのです。