2020年5月

 5月3日

「シオンの救い」  佐野 治牧師

イザヤ書62章1~5節

ヨハネによる福音書21章15~25節

 

本日与えられました聖書の御言葉は、イザヤ書62章1-5節です。1節では、エルサレムの回復を預言している箇所です。バビロンによって滅ぼされて荒廃したエルサレムを主がもう一度立て直してくださるということが約束されている箇所です。イスラエルの民は、罪の結果70年もの間、捕囚の民としてバビロンに囚われておりましたが、そこから解放してくださるという約束が、このところで言われているのです。主はそのためにずっと執り成しておられたのです。先ほどの1節では、主がシオンのために黙っておられることはせずに、その正しさが光と輝き出るように光を放ち、その救いが松明のように燃えるまで、働いて下さるという約束がされているのです。いったいどのようにして主は働いて下さると言っているのでしょうか。エルサレムが回復する時に、諸国の民は、2節「シオンよ、あなたの正しさを見て、すべての王があなたの栄光を仰ぐようになります。世界中のすべての人が、あなたの上に神の大いなる救いの御業がなされたことを知り、神をほめたたえるようになる」と言うのです。そして「シオンよ、あなたは、主の口が定めた新しい名前で、呼ばれるようになる」というのです。この新しい名とは、「新しい性質」に主によって変えられることを現わしています。それはどのような性質かと申しますと、そのことは、3~5節で語られております。今までは、「見捨てられている」や「荒れ果てている」と呼ばれていましたが、これからはそのようには呼ばれませんよ。というのです。ではどのように呼ばれるかというと、「シオンよ、あなたは望まれるもの」とか、「シオンよ、あなたの土地は夫を持つもの」と呼ばれるというのです。今まで見捨てられ荒れ果てていると呼ばれていたものが、望まれるものと呼ばれたら、なんと嬉しいことでしょう。

本日の新約聖書の御言葉は、ペトロと主イエスの食事後のやり取りが記されている箇所です。食事が終わると主イエスはシモン・ペトロに質問をします。「この人たち以上に私を愛しているか。」と。突然の主からの質問にペトロは戸惑いがあったことでしょう。ペトロは答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです。」というと主は、「私の小羊を飼いなさい」と言われました。そのことを三度も主はペトロに言われました。三度も同じことを質問されたペトロは悲しくなりました。しかし、なぜ主は三度も同じ質問をされたのでしょうか。私たちはこの記事を読んだときに、主が十字架におかかりになった時の、ペトロの姿を思い起こすのではないでしょうか。主イエスのことを三度、知らないといったと記されています。その三度目には、呪いの言葉すら口にしたと記されています。この主イエスの三度の質問は、ペトロの呪いの言葉を含んだ三度の「私は知らない」と言った否定の言葉を帳消しにするという主イエスの赦しの愛が現れている箇所なのです。そして三度にわたり、「わたしの羊を飼いなさい」と、宣教牧会の使命を与えられて、ペトロを待ち受ける厳しい将来を予告しながら、それでも「私に従いなさい」と、主はペトロに語り掛けるのです。

さて、「あなたはなにもかもご存知です。」と深く悲しんで答えたペトロの告白の中には、ペトロの自らの罪を悲しむ思いがにじみ出ています。そのペトロに主イエスは「この人たち以上に私を愛しているか」と問われました。なぜ主イエスは、わざわざこのような質問をされたのでしょうか。他の弟子たちに勝る愛をペトロにお求めになったのでしょうか。ある神学者は、「ペトロは、なぜ他の人々よりも私を愛するかと問われたのか。あなたは誰よりも深い罪びとであると教えて頂いたパウロが、テモテへの手紙一1章15節において、自分は「罪びとの中の最たる者」だといったのと相応ずる信仰の心、悔い改めの心を、主イエスはペトロにお求めになった。」と言っておりました。まさに主が他の弟子たちに勝る御自分への愛をペトロにお求めになったのは、パウロと同様にペトロにも、自分が誰よりも罪深いものだという事を受け止めることを願っておられたからです。そして罪びとの中の罪びとであるペトロを主が赦してくださることを知るときに、他の弟子たちよりも主を愛することによって「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです。」というペトロの言葉が出てくるのです。

「あなたはこの人たち以上に私を愛しているか。」この言葉は、ペトロにだけに問われている言葉でしょうか。そうではありません。今もなお、私たち一人ひとりに問われている言葉なのです。私たちは皆、最も大いなる罪びとであります。そのような私たちを、主なる神は最も深く憐れみ、そして私たちの罪を赦して下さるのです。そのことを私たちは、毎週日曜日に主の日を迎える毎に覚え、そして主に感謝しているにもかかわらず、時に、一番近しい人を愛することが出来なくなることがあります。

 神のシオンに対しての救いや、主イエスの赦しから考えると、ごく小さなことであっても、赦すことが出来ない私たちがいます。そのような私たちですが、他の誰よりもご自分を愛することをお求めになられた主イエス・キリストの語りかけを、聖書を通して絶えず聴き、そして他の誰よりも罪深い自分であることに日々気づかされて、他の誰よりも大きな愛で主が自分を赦してくださることをいつも新しく知ることで、私たちが人を愛し、また人を赦すということが出来る道が与えられるのです。

 

 5月10日

「私があなたを選んだ」  佐野 治牧師

エゼキエル書36章24~28節

ヨハネによる福音書15章18~28節

 

 本日与えられました新約聖書の御言葉は、ヨハネによる福音書15章18節以下の御言葉です。18節。主イエスは、父なる神と自分との愛の関係が、弟子たちに対して、また弟子たちの間でも実現することをおっしゃったのですが、主イエスや弟子たちに対するこの世の態度は、逆に憎しみであることを説明しているのです。なぜ、主なる神の子、主イエスに対して憎しみを抱くのでしょうか。憎しみを抱く人は、信仰を持っていない人でありました。そしてこの世に属している人であるのです。主イエスはと申しますと、この世へは属さず、この世の業が悪であることを暴くのです。ですからこの世から憎まれてしまうと言うのです。そして、主イエスの言葉によって清められている弟子たちも同様にしてこの世ではなく、神に属する者となるので、この世の人々からは、憎まれてしまうのです。19節。主イエスによって選び出された弟子たちをも、主イエス同様にして憎まれてしまうのです。この世は異質な者を憎むのですが、父なる神のもとから、この世に来た主イエスは、異質なものであっても、すべての者を愛してくださる、それが神の子主イエス・キリストなのです。この節で主イエスが言われた大切なこととしては、主イエスの選びによって選び出された弟子たちは、この世から選び出された主イエスの弟子であるということ、それ以外の理由では、決して人々から憎まれることはない、という事も意味しているのです。

20節。ヨハネ福音書記者は、13章の主イエスが、弟子たちの足を洗ったという「洗足の記事」のところでも同じことを宣べています。13章1節以下です。16節17節をお読みします。「はっきり言っておく。僕は、主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことがわかり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」ここで『僕は主人にまさりはしない』と言っております。これを主イエスは、迫害や信仰にも当てはめていると言えるのです。人々は、主イエスを迫害したように、主イエスの僕である弟子たちをも迫害をしますが、弟子たちの受ける迫害は、主イエスの受ける迫害に勝ってはいないと言うのです。逆に、人々が主イエスの言葉を守るのであれば、弟子たちの言葉をも守りますが、それは弟子たちが主イエスより大いなる言葉を語り伝ええているからであるのです。

この箇所で、新約学者である土戸清先生の書物によりますと「私たちの自身の価値や尊さを隣の人に対して誇ることはできないのです。私たちに価値や尊さがあるとすればそれは、神との関係の中にある者です。誇るものがあるとするなら、それは、主イエスにおいて神とのかかわりに生きることが赦されている、そのことだけであるのです。」と言っております。ですから「僕は主人に勝らず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」のです。この謙虚さを失うときに、私たちは自らを失ってしまうのです。自らを神としないという戒めや規範を持っているのがキリスト者です。キリスト者とそうでない人の違いは、ここにあります。真の父なる神への信仰を否定するような心を持つ多くは、必ずと言ってよいほどに、自分自身が権力を振り回し支配する立場に立ったり、自らを神としてしまうのです。これは他人事ではありません。国家権力のような場合も、身近な家庭や身近な職場でもそのようなことは起こるのです。しかし私たちは知るのです。主イエスの姿を。主イエスは主として王として権力を握っておられましたが、その権力は、力で支配したものであったのでしょうか。そうではありません。力や武力による支配ではなく、神の言葉、神の福音による支配でした。主なる神の子は、十字架の死に至るまで、人々に仕えるものとして、謙虚さの大切さを私たちにお示しくださいました。

 本日の旧約聖書の御言葉は、エゼキエル書3章24-28節が与えられました。エゼキエルは、終わりの日に神がイスラエルの民に対して、新しい心を与えて、新しい霊を置き、その霊によって、神の掟と裁きに従って歩むようにイスラエルを導くであろう、と預言をされるのです。エゼキエルは、自らの力で、自らが判断した行動によって彼らに言葉を伝えたのでしょうか。そうではありません。自らの意志や努力によってではなくて、神から霊に導かれて、そのことを伝えているのです。神からの霊に導かれてこそ、神に喜ばれる生き方ができるのだ、と語っておられるのです。

  主イエスは言われました。「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」と。迫害のさなかにあった弟子たちが、一番身近に感じたのが、主イエスでした。私たちも、多くの誘惑によって自らの心が揺れ動かされてしまうときに、共にいて下さる主イエスを思い起こそうではありませんか。今日も私たちは、主に招かれてこの場に集いました。共におられる主に感謝し、今週も過ごしてまいりましょう。

 

 5月17日

「神様の愛」  佐野 治牧師

出エジプト記33章7~10節

ローマの信徒への手紙8章31~39節

 

本日は、新約聖書の中の使徒書と呼ばれている、ローマの信徒への手紙を中心に、神様の御言葉を聴いてまいりたいと思います。

31節。この箇所においてパウロは、「私たちに敵対する者は、もう現れませんよ。」とか、「もう、クリスチャンに敵対する者はいませんよ」というような事を、ここで言おうとしているのではありません。35節を見てみますと「だれが、キリストの愛から、私たちを引き離すことができましょう。患難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」と、様々な私たちに敵対する力が現実には襲ってくる、というのです。ただ28節に記されているように“聖霊”は、「神を愛する者たち、つまり御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように」してくださると、パウロは言うのです。そのような私たちに敵対して襲ってくるさまざまな出来事であっても、最終的には皆、自分に対して益となるものに変えられてしまうというのです。だから、決定的に私たちを屈服させることは誰もできないのです。パウロのこの確信はどこから来るのでしょうか。それは「もし神が私たちの味方であるなら」という前提条件のもとにあるのです。この「神が、本当に、私たちの味方」に付いてくださるという事を論証するのが、32節なのです。

本日の旧約聖書の御言葉からも、少し見てまいりたいと思います。出エジプト記です。イスラエルの民が、金の孔子像を造って礼拝する罪を犯したため、天幕を張って執り成しの祈りをささげるモーセの前に、主なる神は雲の柱のうちに現れて、「人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」のです。(出3311)モーセも民も、最も厳しい裁きを覚悟したに違いありませんが、その時に、最も親しい姿でモーセの前に現れる神の姿に、私たちの思いをはるかに超えた深い愛を見ることが出来るのです。

そしてパウロが確信するように、神のもっとも大いなる愛は、キリストの十字架と復活において現れ、その愛は、この世の何ものの力によっても、私たちから離れることはありません。主イエスが、「私は既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と語られたのも、これから主イエスが進みゆく十字架と復活において全うされる神の愛に勝る力は、この世にはない、ということです。だから、弟子たちも私たちも苦難の中に平和を見出すことが出来るのです。パウロがここで伝えたいことはなんでしょうか。それは、この世の終わりになって万物を「相続する」というような、程遠いことを言っているのではありません。現に「敵対する者」が多い中で苦しんでいる私たちへの慰めとして、「神」は、主イエス・キリストを通して、すべてのものを私たちに賜る味方である。という励ましを宣べているのです。

33-34節。この文書の中に、「義とする」「訴える」「罪に定める」という言葉が出てまいります。これらの言葉は、法廷用語として用いられる言葉であるのです。パウロはこの箇所を法廷闘争の譬えをもって語ろうとしておりました。問いと答え、問いと答えというように並んでおります。「罪に定める」という言葉の対立は何になるでしょうか。それは、「義とする」でした。また、「訴える」のかという言葉に対応する言葉はなんでしょうか。それは、「執り成してくださる」という言葉となるのです。誰が、神から選ばれたものたちを訴えることが出来るでしょうか。ここでパウロが言っていることは、「神が」私たちを「義とされる」からには、「だれも」わたしたちを「訴える」ことはできない、という事を言っているのです。

35節以下を見てまいります。ここまでは、「神様が私たちの味方である」という神様の愛に訴えて、私たちを慰め励ました箇所でしたが、35節からは、私たちのために死んでよみがえり、執り成してくださると言われた主イエス・キリストの愛、「キリストの愛」から私たちは離れない。また離されないという事を語る部分に入ります。

35節。私たちは「キリストの愛」と聞くと何を思い起こすでしょうか。様々なキリストの愛の出来事が聖書を通して記されておりますが、何よりまず、主イエス・キリストの十字架における死を思い起こすのではないでしょうか。私たちのために死んでくださった、主イエス・キリストの無償の愛です。パウロは、そのような「キリストの愛」からわたしたちを引き離そうとする、離れさせる可能性のあるものとして、「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」という様々なものを列挙しています。このようなものを列挙したパウロですが、このようなことがすぐに起こる、もう起こっている、という事で書かれたのではありません。先ほども申したように、パウロは様々な迫害を経験しています。そのパウロの実体験から、今はまだあなたがたに襲い掛からないかもしれないが、すべてのクリスチャンが体験しかねないものとして、このようなリストを上げているのです。

ローマの人たちの中には、キリスト者でありながらも、迷信的な星占いや天体や霊の力を信じている者がおりました。パウロはそのことについて議論をもちかけるつもりはありませんでした。しかし、このような迷信によって右往左往しているローマの人たちがもっとも恐れている、現在と将来の運命を決めて、高いところも深いヨミの運命を決めるもの、あの天使とか支配者と呼ばれている悪霊ども、そのようなこの世の人が最も恐れる不気味なものであっても、キリスト者を「キリストの愛」からは決して引き離すことはできないのである、とパウロは言いたいのです。

パウロは主の愛を知ってこそ、何度も苦難の時を過ごしながらも、命の危機さえも感じながら、主を語り、主の愛を語り伝えることが出来たのです。本日も神様は、私たちを大いなる愛で包み込んでくださっています。主の愛に感謝し、この一週間を過ごしてまいりましょう。

 

 

 5月24日

「生きた水の流れ」  佐野 治牧師

列王記下2章1~15節

ヨハネによる福音書7章32~39節

 

本日の新約聖書の御言葉は、ヨハネによる福音書7章32節以下です。32-35節。ここに祭司長とファリサイ派の人々という語によって、主イエスの時代の、ユダヤ教の、あるいはユダヤ人社会のエリート層の人たちが代表されています。その人たちが主イエスを捕らえるのです。即ち裁判にかけるために「下役」を遣わした、と聖書は記しています。このユダヤ人社会のエリート層に属する人たちは、主イエスを捕らえて処刑することによって、イスラエルの歴史から、また世界の歴史や人類の歴史から、主イエスを排除することを目論んでいたのです。実はこのことは、人間社会を力で支配しようとする者にとっては、共通する願いであったのです。主イエスにおいて示された神の御意志は、人の上に人を立てることを決して認めない、でありました。その精神を認めずに否定する人々が、数多く存在するのです。この人たちはいったいどのような人たちであったのでしょうか。人々が平等であること、男性と女性が同じ権利を有することを、きちんと教え示すという、そのような存在を恐れるのは誰であったのでしょうか。それは、権利や権力を乱用して、人々を支配しようとする者たちでした。このような存在の人たちはどの時代にも、様々な形で存在し、もちろん現在にも存在しています。

33節で主イエスは、今しばらく、私はあなたたちの力による武力による支配の中にいるが、それから自分をお遣わしになった方、究極的な権威が支配する他の世界に帰る。というのです。究極的な権威が支配する他の世界とは、力による支配、武力による支配ではなく、霊の働き、神様の御支配されるところを示しているのです。しかしこのユダヤ人社会のエリートたちにとっては、この神の御支配するところ等分かるはずがありません。しかし私たちキリスト者はどうでしょうか。力や武力での支配ではなくて、神の言葉、神の福音によって支配されるという権威を持つお方を知っています。主イエスが、その方の元へ行かれることもわかるのです。主イエスは続けて言われました。「わたしが行く所に、あなたがたは来ることが出来ない。」と。主イエスに敵対するユダヤ社会に属するエリートたちは、主イエスが父なる神のところへ行くときに、そこに共に行くことはできないというのです。では、主イエスの弟子たちはどうであったのでしょうか。主イエスの弟子たちは、主イエスに従って仕えるのであれば、主イエスと共にいることはできるというのです。では、弟子たちが主イエスの行くところについていくことはできるのでしょうか。いえ、主イエスの弟子であっても、主イエスの行く所についていくことは出来ないのです。それは、主イエスの行く所、それは十字架上であったからです。十字架上での死に向かうので、弟子たちであっても一緒に行くことが出来なかったのです。父なる神の定めたこの十字架には、弟子たちの中の誰一人として主イエスと共にかかることは出来なかったのです。

後半部分に入っていきます。37節「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。」とあります。ここに記されております祭りとは、仮庵祭のことです。人々は最後の日に聖なる集会を開き、神に捧げものをしました。この祭りは、一年の最後の祭りであったので、その最後の日は、言わば一年で最も盛り上がる日であったのです。そのような日に主イエスは人々の注目を集めて叫んだのです。聖書の文中に、生きた水が川となって、という表現があります。「川」という言葉は、原語では複数形で記されています。この川にたとえられているものは「霊」です。複数の川は聖霊の与える複数の様々な賜物を指し示しております。どんな賜物が挙げられるでしょうか。ガラテアの信徒への手紙5章22節には次のように記されております、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」と。さて、この川の水は、川に住む生き物にとってはとても大切な命を与える生きた水です。ですから主イエスは、自分の与える水が、その人に永遠の命を与えるだけではなくて、その人を通して他の人々にも永遠の命がいきわたるほどに豊かであることを示しているのです。

さて、みなさんは、今生活をしている中で、神様の導き、聖霊の導きを感じたことがあるでしょうか。皆さんそれぞれにその感じ方が違うと思います。私たちクリスチャンは、時に「証しをしてほしい」と頼まれることがあります。頼まれたときは、ドキッとして、何もしゃべれなくなってしまう、そのようなこともあると思います。ではこの「証し」とは、なんでしょうか。個人の業績や個人の生い立ちを語るだけの事でしょうか。そうではないようです。証しの主だった内容は、神様によってどのようにして信仰に導かれたか、そしてどのようにして神様の愛を感じることが出来たか等、それぞれに働かれた聖霊なる神の働きを語るときとして、証しがあるのです。私が神学校3年生の夏休みに、夏期伝道実習で岐阜県の三つの教会で2週間のスケジュールで実習をさせて頂きました。この三つのすべての教会でさせて頂いたのは、証しでした。どのようにして自分が教会に導かれて、そして洗礼に導かれ、神学校に導かれたか、それを語るのです。はじめのうちは、恥ずかしい思いがいっぱいで、証しなどをすることが出来ませんでした。しかしある時、実習先の牧師先生に言われたのです。「証しは素晴らしいことだよ。あなたの自己紹介やあなたの自慢話やあなたが失敗したことを話して下さい、と言っているのではないですよ。神様があなたにどのように働きかけたかを語ることによって、それを聴いていた人は、喜びを与えられて、時に前向きに生きることが出来るようになることもあるんだ。」と教えて頂いたのです。

 

 主イエスによる栄光は、「受難」「十字架」「復活」「昇天」によって示されます。今私たちがいるこの時は、教会の時と言われます。教会の時というのは、聖霊が今もなお、働いて下さり、神の導きや祝福によって生きる時であるのです。主の働きを信じて、一日一日を過ごしてまいりたいと思います。

 

2020年4月

 4月5日

「喜べ、あなたの王が来る」  佐野 治牧師

ゼカリヤ書9章9~10節

ヨハネによる福音書18章28~40節

 

 「喜べ、あなたの王が来る」という説教題であるが、では主イエスはどのような王であったのだろうか。主イエスは、力や権力によって支配をするのではなく、神の義によって、民を愛をもって支配する。しかし、主イエスを神の子として認める事が出来ずに、主イエスを十字架へと追いやった民は、主イエスをこの社会の有害な者としての決定を下した。そう判断した者はまさに、神を神として見ない者たちなのである。人間的な欲望や感情によって、神を神としてみることが出来ない者たちの姿、これは他人事ではなく、私たちの姿を現しているのではないだろうか。私たちも自分は神を信じていると言いながらも、何か本当に辛い事、悲しい事、苦しい事があった時、「なぜ、私はこんなに苦しい思いをしているんだ。本当に神様はいるのか?」と思ってしまうことはないだろうか。この世的なことに流されてしまう自分はいないだろうか。キリストの十字架における死が、全ての終わりであるかのように思ってしまう人もいる。当時のユダヤ人社会のエリート層も、そのように思っていた。しかしそうではなく、主イエスの死は、すべての終わりではなく、すべての始まりなのである。私たちの罪をすべて背負われて十字架につけられた主イエスは、神によって復活されたのである。主イエスは、死に勝利されたのである。復活の喜びを共に祝う日、それがイースターである

 

 4月12日

「なぜ、泣いているのか」  佐野 治牧師

イザヤ書55章1~11節

ヨハネによる福音書20章1~18節

 

 主イエスは、ピラトによって、死刑判決が言い渡され、十字架につけられた。金曜日の午後三時頃、主はお亡くなり、墓に葬られた。マグダラのマリアは、墓から石が取り除けてあるのを見ると、急いでシモン・ペトロのところへまた、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行き、遺体が墓から取り去れていることやその行方が分からないことを告げた。しかし当時、女性は証言するという権利がなかったこともあり、弟子たちはこのマリアの話をたわごとのように思っていたが、ペトロとヨハネは、墓へ向かって急いだ。二人ともに墓に向かって走っていたが、ヨハネの方が幾分か早く到着した。中には主の遺体はなく、亜麻布がおいてあった。後からペトロが到着し、主を覆っていた亜麻布と頭に覆っていた布が残されていることを確認した。8節「ヨハネが見て信じた」。ペトロもヨハネも信じることはしたが、十分に理解はしていなかった。空の墓穴を見たペトロとヨハネは、その場を去り帰った。マリアが墓穴の前で泣いていると、白い衣を着た二人の天使に出会った。天使たちは言う。「女よ、なぜ、泣いているのか」。マリア「私の主が取り上げられました。どこに置かれているのか、私にはわかりません。」と答えた。マリアは後ろを振り向くと、復活の主が立っていたが、マリアは主とは気が付くことが出来なかった。主が「婦人よ、何を泣いているのか。誰を探しているのか。」と、丁寧な言葉で言った。マグダラのマリアは、目の前にいる復活の主に気づくことが出来なかった。主が「マリア」と声を掛けると、マリアは「ラボニ」、先生と返事をした。マリアは主の姿を見ても分からなかったが、自分の名を呼ぶ声を聴いて、「主だ」と分かった。主は言われた。「私にすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と。なぜそのように言われたか。主が天の父なる神のところへ上り、この世の肉体的にはいなくなっても、信仰に基づいて復活した霊的な主イエスを人々に求めさせるためであった。主が復活されたのは決して、地上の生活に再び戻られるためではありませんでした。天の父のみもとに上ってゆかれるために蘇られたのです。復活して、天の父のみもとに昇って行かれることは、私たちの間から、永遠に失われること、また、歴史の中から単なる過去の人になってしまわれることではない。かえって、天の父のみもとに上って行かれることによって、地上に残された弟子たちとの間に永遠の交わりの絆が結ばれたのである。

 

 4月19日

「生き生きとした希望」  佐野 治牧師

出エジプト記15章1~11節

ペトロの手紙一 1章3~9節

 

ペトロの手紙一1章1節~2節は、手紙の書き出しのあいさつ文。その挨拶の後に、本日の箇所が続く。3節「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」。まさに、この3節において、復活の喜びを語っている。主イエスの復活は、この世で生き続ける人々の「希望」の源泉、希望の源である。

3節の前半部分を口語訳の聖書で読んでみたい。「ほむべきかな。私たちの主イエス・キリストの父なる神は」となる。このペトロの手紙一は「ほむべきかな」という賛美の言葉をもって始めている手紙である。このペトロの手紙一は、キリストの信仰とキリスト者の生活の入門書のようなものである。洗礼を受けたばかりの方、いわばキリスト者としての第一歩を踏み出した方に対し、信仰者の生活とはいかなるものかを教えている文書である。

6節「それゆえ、あなた方は、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」。この句も、賛美から現れてくる喜びの言葉を表現している。「あなたがたは、心から喜んでいる」という言葉に注目をしてみる。共に喜びを表すペトロのメッセージであるが、「あなた方は」となっている。ペトロは共に喜びの中にいないのか。ペトロはまず、自分が喜びに満ちあふれ、他の人に先立って自分が喜びの中に入り、その後その喜びの中へ他の人たちを招き入れる、という「喜び」の表現をしているが、ここではそうではなく、ペトロは「あなたがたの喜びを見て、そして私も喜ぶ」と言っている。それはいったい、何を意味しているのか。ペトロの手紙を書いたのは、迫害の危機が迫っているローマの都であった。その困難な状況にあっても、使徒として、伝道の責任を持っている者となっていたペトロは、自分が苦労を負わされていて、「私がその苦労を背負っているおかげで、あなたがたは喜びにあふれて生きることが出来るんだ」と言っているのではなく、ペトロもこの手紙を受け取った人々も同じく、共に喜びに満ちあふれて生きているのである。しかもその喜びをペトロは自分の中に見るよりも、他人の中に見るのです。他人の魂の中を覗き込むようにして、そこに喜びがあることに、大きな幸いを感じている。

8節「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています」。この箇所において、代々の信仰者たちは実際にキリストを見たことはないが、聖書に語られる復活の証言を繰り返し生き生きと追体験して、現実のものとし、希望の源としてきた。主イエスの復活された日を記念して教会に集う私たちは、主イエスの十字架と復活を通して罪が赦されて、新しい命を与えられ、平安を与えられ、聖霊を豊かに受けて、この世へと送り出されてゆく。いわば主日ごとの礼拝が、私たち自身の復活の体験のドラマだということもできる。8節において一番伝えたいことは何か。それは、私たちが「望み」に生きているということは、「主イエスを愛している」ということであるという事。しかも、「主イエス・キリストを見たことはないが」愛している。

 しかし今この時、「生き生きとした希望」を私たちは語ることが出来るだろうか。新型コロナウイルスによって、大勢の方が犠牲になり、今もなお多くの方が苦しんでいる。それぞれが苦しみの中にある今、本日の御言葉が与えられた時に私は、「アーメン」と声高らかに言いたくなるような思いになった。今だからこそ、生き生きとした希望の御言葉が与えられている、と感じたのである。勿来教会の礼拝堂に共に集うことが出来ないという現実がある。しかし私たちは、気づくのである。どんな状況にあれ、教会に集えなかったとしても、思いを共にして、それぞれの場所で、礼拝を捧げることが出来ることを。共に祈りを捧げ賛美をすることで、「生き生きとした希望」を与えられていることを。このような時だからこそ、皆さんで、祈りを合わせて、主なる神に、救いを求めてまいりたい。

 

 4月26日

「復活の主、弟子に現れる」  佐野 治牧師

イザヤ書61章1~13節

ヨハネによる福音書21章1~14節

 

テキストは、ガリラヤ湖畔で主イエスが、死人の中から復活され、弟子たちに現れた、その事情を伝えている箇所です。1節「その後、イエスは、ティベリアス湖畔で、また弟子たちにご自身を現わされた」とあります。シモン・ペトロが「わたしは漁に行く」と言ったところ、他の弟子たちも「私たちも一緒に行こう」と言ったのです。そして彼らは出て行って舟に乗り漁を始めました。しかしその夜は、明け方まで漁をしても一匹もとることが出来なかったのです。すでに夜が明けたころ、主イエスが岸に立っておられたのですが、そこに立っているのが主イエスであると、誰も気づかなかったのです。この時、主イエスの方から声をかけられました。5節「子たちよ、何か食べ物があるか。」一晩中漁をしておりましたが、何も取れませんでしたので、「ありません。」と答えるしかなかったのです。すると、主イエスは「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と言われました。

さてペトロは、この同じ事が以前もあったことを思い起こしたのではないでしょうか。それは、ルカによる福音書5章に記されている、ペトロが召命を受けた時の場面です。夜通し漁をして何もとれなかったペトロに、主イエスは、腰を下ろして船から群衆に教えを始めるために、岸から少し漕ぎ出すよう頼みました。主イエスは人々に教え終わると、ペトロに4節「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」と言われました。ペトロは「夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と答えて網を降ろしてみますと、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになったのです。ペトロはイエスの足元にひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言いました。しかし、そのペトロに向かって主イエスは、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言われたのです。これは、主イエスとペトロの最初の出会いの時です。この時と同じ状況が、起こりました。

この時も、網を打ってみると、魚があまりに多く、網を引き上げることが出来なかったのです。魚でいっぱいの網を引きあげた時、ペトロは「あの時と同じだ。」と感じたに違いありません。ペトロはこの時改めて、主イエスと最初にお会いして、主によって召し出された時の言葉を思い起こしたのではないでしょうか。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」場所もガリラヤで同じです。状況も同じです。復活の主イエスからの再度召命をこの時ペトロは受け取ったのです。そして、7節「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。」ペトロは「主だ」と聞くと、「裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」のです。私はこの場面の、ペトロの姿に感銘を受け、喜びを感じ勇気を与えられました。「ペトロは、湖に飛び込んだ」と記されておりますが、なにも冷たい湖に飛び込まなくても、舟で岸に向かったとしても、そんなに時間は違わなかったのではないか、と思いました。それに、主イエスの前に出るからと上着を着て飛び込みましたが、さぞかし泳ぎづらかったのではないかと思います。なんでこんなことを?とも思いましたが、しかし私は確信に至りました。これがペトロが主イエスを畏れ敬い愛するがゆえに、その熱い愛によって動かされた姿であったということをです。

 さて、陸に上がってみると、炭火が起こしてありました。その上には、魚がのせてあり、パンもあったのです。そして主イエスが「今とった魚を何匹か持ってきなさい」と言われました。そこで、網にかかった魚の数を数えると、なんと、153匹もいたのです。主イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と弟子たちに告げたのです。復活した主イエスが、食事、特に朝の食事をすることを促しました。一日の初めの食事の朝食を促されたのです。朝食を備えることは、一日の生活を支えることをも意味するのです。「イエスはそこに来て、パンを取り彼らに与え、また魚も同じようにされた。イエスが死人の中からよみがえったのちに、弟子たちに現れたのはこれで3度目である」と書かれております。主が招いて下さるとき、彼らは目が開けて主を知ります。食卓は特に親しい交わりを表しています。 

 

2020年3月

 3月1日

「神に仕える道」  武 公子牧師

マタイによる福音書6章24~34節

 

「だれでも、二人の主人に仕えることはできない」と前置きして、イエスは「思い悩むな」と言われる。あなたは何を自分の主人として生き、自分を確かにしているのか。富なのか、それとも神なのか、あなたはどちらなのと問われます。富に仕える道をとるなら、結局は思い悩んで生きることになります。しかし、神がどのようなお方であるのかを悟るなら、私たちは神に仕える道をとり、思い悩まないで生きることが可能となります。イエスはそのことを教えるために、空の鳥、野の花を見なさいと言われます。彼ら自身は何もしていないのに、天の父は養い、装ってくださっているので、彼らは生存しています。天の父にとって私たち人間は、彼ら以上に貴重ですから、なおさら配慮してくださらないはずはありません。父なる神を知らない異邦人なら、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むのは当然です。しかし、神に仕えようとする私たちが、体と命を与えられているのは、思い悩むためではありません。空の鳥が歌い、野の花が精一杯咲いて、創造主なる神を讃えているように、私たちも神に賛美と感謝と祈りをささげて生きるためです。

 

 3月8日

「誘惑を試練に」  武 公子牧師

マタイによる福音書4章1~11節

 

 神の霊がイエスを荒れ野へと導いたのは、悪魔から誘惑を受けるためでした。しかし、なぜイエスは誘惑を受ける必要があったのでしょうか。実は「誘惑」と「試練」は、本来一つの言葉であります。私たちは誘惑も試練も共に苦難の中で出会います。その苦しみが、自分を神から引き離す力として働くなら「誘惑」になります。しかし、その苦しみが、自分を神に近づかせるものとして受けとめるなら「試練」となります。悪魔はイエスを誘惑して、何とかして神から引き離そうとします。しかし、イエスは三つの誘惑を聖書の言葉を用いて悪魔を撃退します。神の霊に導かれイエスが荒れ野で悪魔の誘惑をお受けになったのは、イエスが誘惑を試練に変えることのできる正しい人であることを人々に示すためでした。私たちは空腹に耐えられなかったり、自分の都合で神の力を利用したり、世の栄光に目を奪われたりしやすい弱い人間です。イエスさまはそのような私たちに身をもって、神の言葉を用いて悪魔の誘惑を撃退することを教えてくださいました。私たちも苦しみの中で、神の言葉をもって悪魔の誘惑を退けることができるなら、その時こそ高みへと飛躍できるのだと思います。

 

 3月15日

「イエスに聞きなさい」  武 公子牧師

マタイによる福音書17章1~9節

 

 日常から切り離された別世界が「山」です。なぜイエスはペトロたちを連れて山に登られたのでしょうか。実は、ペトロはイエスの受難と復活の予告を聞いた時、とんでもないとイエスをいさめました。そして「引き下がれ、サタン」とイエスに叱られます。イエスの十字架への道を妨げる者はだれでもサタンなのです。メシアの受難と死を理解できない弟子たちを励ますために、イエスは山の上で復活の栄光の姿を垣間見せたのでした。さらにイエスが旧約の預言者たちと語り合っているのを見たペトロは、この素晴らしい出来事を地上に留めるために、仮小屋を三つ建てることを提案します。しかし輝く雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という神の声が聞こえました。天上の栄光を地上に留め置くことはできません。彼らが頭を上げると、もはや預言者の姿も神の姿も消え去り、ただイエスだけがおられました。イエスは弟子たちと共に山を下りて行きました。私たちも礼拝を終えてそれぞれの日常へと戻って行きます。私たちが聞くべきは、イエスなのです。レントの日々をイエスに聞き、イエスの後をついて行きたいと思います。

 

 3月22日

「あふれ出る湧き水」  武 公子牧師

ヨハネによる福音書4章5~15節

 

私たちの命を維持するために水は欠かせません。また私たちの心の渇きをいやすために霊的な水も必要です。「水」は命とつながっています。旅に疲れたイエスがサマリアの女に「水を飲ませてください」と頼みます。そこからイエスと女の会話が始まります。最初はイエスをからかい半分でしたが、「生きた水」の話を聞いているうちに、今度は自分の方から「その水をください」と求めます。不信仰者や罪人を差別せず、切り捨てない「愛」が私たちを変えます。ついに彼女はキリストを証しする伝道者へと変えられました。

 私たちは礼拝という時間と空間において主の前に自分を休ませ、愛と赦しと希望に満たされてこの世へと遣わされます。キリストと私たちの関係は、泉と湧き水の関係にたとえることができます。キリストと一つになるとき、そこに神が働いてくださり伝道の実を結ばせてくださいます。世の中はコロナウイルスのため殺伐としていっそう孤独や不安に満ちています。だからこそ、私たちは泉からあふれ出る湧き水となって周囲の人々を潤すよう促されています。

 

 3月29日

「主よ、信じます」  武 公子牧師

ヨハネによる福音書9章1~3、35~41節

 

 聖書は「罪」をどのような視点でとらえているのでしょうか。生まれつき目の見えない人がイエスにいやされた物語を通して考えます。イエスの時代は、病気や苦しみは本人や両親が罪を犯した結果だと信じられていました。しかし、イエスは、そうではない、神の栄光がこの人に現れるためであると述べています。ファリサイ派の人々は、イエスにいやされた人が目の前に立っているのに、しかも話をしているのに「神の業」が見えません。彼らのように、自分は完全だと言い張る時、いやすために来られたイエスを拒否することになります。自己主張のあまり神を否定する頑なさこそ罪であるとイエスは教えます。イエスにとって罪とは、人が自分自身の中にそれがあることをいち早く認めて、いやしてもらうべきものなのです。一方、イエスにいやされた人は神の栄光を世に示す通路となることができます。私たちも過去のために現在の自分の苦しみや病気があるのだと決めつけないで、視点を変えて、神の不思議な業と創造の力と恵みを信じる時、新しいスタートが始まります。

 

2020年2月

 2月2日

「あなたがたの光が輝け」  武 公子牧師

マタイによる福音書5章13~16節

 

イエスさまは、「あなたがたは地の塩、世の光である」と言われます。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、神を崇めるようになるためです。でも私のような者が、人々の手本になるでしょうか。心配しなくても大丈夫です。なりますとも。イエスさまは「地の塩になれ。世の光になれ」と命じてはいません。イエスさまに従う者はすでに「地の塩、世の光である」という事実を、私たちの現状を語っているのです。キリストに結ばれるなら、塩はキリストから来ます。塩は食物に味をつけ、腐敗を防ぎます。そのようにキリスト者も、良い味わいを醸し、腐敗を抑えて、清潔を保ちます。

 光もキリストから来ます。ちょうど、月が太陽の光を反射して輝くように、キリストに従う者は、キリストの光を反射して輝くのです。イエスさまが期待されるのは、私たちが自ら光を作り出すことではなく、与えられた光を覆い隠さないで、人々の前に輝かすことです。私たちが為すべきことは、光が輝き出そうとするのを邪魔しないことです。さあ、これからは主のため引っ込み思案になったり、とても無理と言ってイエスさまの光を妨げないようにしましょう。私たちはこんなにもイエスさまに期待され、信頼されているのですから。

 

 2月9日

「新たな息吹を吹き込む主」  武 公子牧師

マタイによる福音書5章22~22、27~28、

            33~34、37節

 

  「昔の人はこう言っているけれど、しかし、わたしはこう言う」と述べてイエスは新しい戒めを語ります。昔の人とはイエス以前の人々ですが、十戒に自分たちの解釈を加えた人々のことです。たとえば「殺すな」という戒めを説明するのに、「人を殺した者は、裁きを受ける」と付け加えました。そして「人を殺した者」とは、凶器を使って人を殺した殺人であると考えました。そのように解釈することによって、ほとんどの人は凶器によって殺人をしませんから安心していられます。自分は律法を守る正しい人間でいられます。しかし、イエスは神の思いに心を向けて、神の戒めを読み取りました。すなわちこうです。人間関係を破壊する行為こそが殺人である。イエスの視野の中には、人間が共に生きるということが入っています。従って凶器を使うだけが殺人ではない。兄弟を「バカ」と言う私たちの「口」も凶器になり得るのだ。神が大切にされるのは、生命だけではない。人の命の全体となる人格を大切にすることが神の思いなのだと諭します。イエスの十字架の愛によって罪の赦しを受けて、神の国に招き入れられた私たちです。神の戒めに込められている神の思いを聞き取り、感謝して新しい戒めを生きようと思う。

 

 2月16日

「敵を愛しなさい」  武 公子牧師

マタイによる福音書5章38~48節

 

私たちは他人を愛しぬくことができない自分を知っています。他人を赦せない自分もいます。しかし、イエスは「敵を愛しなさい」と命じます。敵どころか、隣人を自分のように愛することができたらどんなに良いかと思います。しかし、いざ実践しようとしてもできませんから、そんな自分に失望するほかありません。しかし、イエスはそんなことは御承知の上で、だからこそ天の父に目を向ける必要があることを示されます。天の父とは、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる方です。

  私たちが自分を「迫害する者のために祈る」のは、私たちが「天の父の子」となるためです。「父」のようになろうと思えば、「祈ること」が必要になることがわかるはずです。「敵を愛し、迫害する者のために祈る」なら、天の父のように、私たちも完全な者となり、人々に天の父が完全であることを示すことになります。私たちの力で完全になるのではなく、ならせていただくのです。主イエスは不完全な私たちの罪のために十字架に上ってくださいました。神の大きな深い愛に心を打たれるなら勇気が湧いてくるはずです。

 

 2月23日

「主に望みをおく」  宇佐美節子牧師

(四国教区東予分区協力教師)

  イザヤ書40章28~31節

 

 私は、20109月から20163月まで沖縄教区石川教会の牧師でした。2012101日にオスプレイが沖縄に配備されたことを受けて「普天間基地ゲート前でゴスペルを歌う会」が同年1029日から開始されました。「殺してはならない」という聖書の言葉に立ち、命の尊厳を守るためにオスプレイ配備の反対、軍事基地の撤去、暴力への抗議を目的に毎週月曜日夕方、普天間基地ゲート前でゴスペルを歌い、聖書朗読、平和の祈りを捧げました。それは、讃美集会、伝道集会ともいえる出会いと喜びに満ちた不思議な1時間でした。この活動は、今も地道に粘り強く展開され、共にある恵みを味わい互いを尊重しつつ、エキュメニカルな交わりの中で成長させられています。神は、この私たちの叫びや祈りに讃美の歌声に耳を傾け聴いてくださるとの確信をもって続けられています。まさに、「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書40章31節)の聖書の言葉が真実であることを思います。私は、原発事故と基地あるゆえの苦しみは根底に共通するものがあると考えています。これからも共に!

 

2020年1月

 1月5日

「天が開いた」  武 公子牧師

マタイによる福音書3章13~17節

 

 イエスはガリラヤからわざわざ洗礼を受けるために、洗礼者ヨハネのもとにやって来ました。そして人々と共に洗礼をお受けになりました。しかし、罪のないイエスがなぜ洗礼を受ける必要があったのでしょうか。ヨハネは聖霊と火で洗礼を授けるメシアであると知っていました。そこでイエスに思いとどまらせようとしましたが、イエスは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言われました。「我々」とは、イエスとヨハネだけではありません。すべての人々を含んでいます。イエスは、人が神に対して行うべき正しい態度を自らお示しになりました。私たちは天の国の到来に備えるために、洗礼を受けて清くなる必要があります。神が望んでおられるからです。イエスが洗礼を受け、水の中から上がられると、見よ、天が開いて、霊が鳩のように降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえました。預言者の時代が終りを告げ、「愛する子」の時代が始まります。私たちは洗礼を受けた者として、皆「神の子」なのです。「あなたは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者」。これは神さまから私たち一人ひとりに届いた年賀状です。新年を迎えてそれぞれの信仰を更新したいと思います。

 

 1月12日

「見よ、神の小羊だ」  佐野 治牧師(南三鷹教会)

ヨハネによる福音書1章29~34節

 

 「見よ、世界の罪を取り除く神の小羊だ後から生まれた方が、私より先におられた方だ」という。すべての被造物より、先に存在される「先在の神の子」を意味する。主イエスが神の小羊であるということは、主イエスは神の子として人々の罪を清めて、この世の罪から救うために神に奉げられる神の苦難の僕であることが分かる。ヨハネは「私はこの方を知らなかった」と繰り返す。自分が指し示す方が実際にはどの人なのか知らなかった。主イエスと出会いこの方だと分かった。ヨハネは「ある人に霊が降るのを見る、その方がメシアである」と、神に先に告げられていた。ヨハネが聖霊なる神により、主イエスがメシアであると示されたのは、主イエスが自分から洗礼を受ける時であった。ヨハネが授けていた洗礼は「罪の悔い改めの洗礼」。主イエスが真の神であり、神の子であるならば、悔い改める必要はない。ヨハネから洗礼を受けたのは、主イエス御自身が私たち罪人と全く同じ所に降って来られた方だからである。ヨハネは、主イエスを指し示した。私たちに求められていることは何か。それは、ヨハネが指し示した主イエスを受け入れるということ。主イエスによって示された新しい光の中を歩むことである。

 

 1月19日

「神に呼ばれて」  武 公子牧師

マタイによる福音書4章12~23節

 

イエスはガリラヤ湖のほとりを歩きながら、ペトロとアンデレの兄弟、そしてもう一組のヤコブとヨハネのところに行って、彼らをご覧になり、彼らに呼びかけ、ご自分に従うよう招かれました。イエスが呼びかけられたのは、彼らがいつものように漁師として働いている仕事の真っ最中でした。

 

 そのように、私たちの日常生活も、イエスと出会う場、イエスからの呼びかけを聞く場ともなり得るのです。私たちは、それぞれ状況は異なりますが、それぞれ仕事をしたり、家事をしたり、勉強をしたり、具体的な状況の中で生活をしています。その状況が一人ひとりの生活環境です。イエスは今も、私たちの日常生活の置かれた現場で呼びかけ、弟子として従うよう招いておられます。イエスご自身生まれた時から、十字架にかけられて亡くなるまで、30数年の間、罪以外は、私たちとまったく変わらない日常生活を送られました。私たちの平凡な日常生活が尊いものとされるのは、イエスが人間としてこの地上で生活されたことが根拠となります。この一年も一人ひとり置かれている日常生活の場で、イエスに出会い、イエスの呼びかけに応えて、イエスに従い行く者とされたいと思います。

 

 1月26日

「幸いな人とは」  武 公子牧師

マタイによる福音書5章1~12節

 

イエスさまが「幸いである」と言われる人々は、「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」であり、彼らは迫害の中でじっと耐え忍ぶ人々です。そして圧迫されてもなかなか折れない、したたかな柔和さをもって神への信頼を貫きます。一方、「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」は、迫害のさなかにあっても、積極的に他者と関わっていく人々です。外との関係を断ち切ろうとせずに、神の救いが確かであるから、他者を赦す心を持ち、清い心の状態で、圧迫されてもへこたれずに、平和をつくり出していきます。

私たちも常に起こってくる人間関係の中にあって、抑圧や圧迫を受け、悲しんでも、その仲たがいをいっそうひどいものにしないため、柔和さをもって耐え、憎むことなく、憐れみ深く行動し、むしろ平和を打ち立てる者となるなら、イエスさまから「幸いな人々」と呼ばれるでしょう。

 

 そして「心の貧しい」者とは、神さまの前に何も持たない者として立つことです。自分を誇ることなく、神にすがり、「空の器」となることです。その時、聖霊の喜びで満たされます。自分の貧しさを知る者は、幸いなのです